とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

子供の特性を受け入れられない親(1)~よくしゃべるのに国語ができない子

この仕事、好きでやってますし、自分には一番合っている仕事だと思っています。

ですから、その仕事だけで食っていけるどころかキャンセル待ちが多いくらいの状態を日々ありがたく思っています。

それでも、心が折れそうになるときがあります。

それは、生徒がサボるといった生徒の要因ではありません。

親御さんが「わが子の特性を認めようとしない」ケースです。

ざっくり言うと、その生徒が「できない原因」は「性格」や「特性」にあり、まずそこを直さないと伸びないとわかっているのに、どんなに言葉を尽くして伝えても、親御さんが「聞こえないふり」をするケースです。

 

私は仕事の継続よりも本人の成長を最優先に考えていますので、こういうとき、本当に心が折れます。

「原因がそこにあることさえ受け入れていただければ、生徒が抱えている困難も楽になり『壁』を破れるのに」と口惜しく思うからです。

逆に言うと、たとえ耳が痛い話でも、親御さんが真摯に「原因」を共有してくださり、一緒にサポートしていけた場合には、それこそ「バクノビ」します。その経験が数多くあるだけに、「受け入れない親御さん」を残念に思うわけです。生徒の機会をみすみす潰しているのがわかるので。

 

今回は、「よくしゃべるのに国語ができない子」について書きます。

 

おしゃべり大好きなのに、国語がからっきしできない子。

親御さんの目から見たら、不思議かもしれませんね。

でも、これは不思議でもなんでもありません。

なぜなら、よくしゃべる子というのは、往々にして

アウトプット>>>>インプット

の子だから、です。

 

以前も書いたかもしれませんが、私は今流行りの「コミュ力」という言葉がはっきりいって苦手です。それは、コミュニケーションというものが誤解されているからです。

「コミュ充」と聞いて何を思い浮かべますか?

いつも冗談を言って集団を沸かせて「ウェーイ」してる若者ではないですか?

それは、コミュニケーションでもなんでもありません。

お笑い芸人の真似事です。

いや、そう言ったらお笑い芸人の方に失礼ですね。

お笑い芸人の方々ほど、「他人がいま何を考えているか」に敏感な方々はいないといっていいですから。

 

しゃべって、冗談を言って場を沸かす。

それが、その場にいる人の隅々まで気を配って理解したうえで、なら確かに相当のコミュニケーション強者です。でも、ほとんどの場合、そうではありませんね。

 

人は「しゃべっている」間は「聞け」ません。

 

自分がどう見られるかを過剰に気にする子は要注意です。

そういう子は、他人に対して「小芝居」が通用すると勘違いしています。

私は、大人でも子供でも、小芝居をする人が大変苦手です。

それは、他人を小芝居で騙せるという思い上がりが感じられるからです。

 

過剰にしゃべりたがりのお子さんと言うのは、基本的に人の話に興味がありません。

ですから、人の話から「語彙」を学ぶことができません。

たとえ知らない言葉が出てきても、聞いていないか、あるいは知ったふりをするか、はたまた独自の解釈をしています。

 

なにも、そういう若者を貶したいわけではないのです、むしろ逆です。

痛々しくて、かわいそうでならないのです。

承認欲求が過剰で、常に「他人からどう思われているか」が気になって仕方がない。

人の話をさえぎり、茶々を入れ、「自分が」注目されないと不安でしかたがない。

そういう若者を見ていると胸が痛み、少しでも心の安寧を得てほしいと願っている次第です。

 

だからこそ、本人にもそう伝えるし、親御さんにも「語彙が少ない原因は本人の自意識過剰と承認欲求過剰です」と、オブラートに三重くらい包んで伝えます。

が、ほとんどのケースで、真意は理解していただけませんね(苦笑)。

聞かなかったふりをされるのがほとんどです。

 

受験云々抜きにして、「人の話を聞かず自分の話ばかりする」クセを早いうちに直さないと、将来かなり苦労します。会社員時代にも、ほんっっとに多かったです、こういうタイプ(苦笑)。会議の途中で茶々を入れ目立ちたがる。そのくせ、人の話は聞いていない。周りはかなり辟易しているんだけど、本人は気づかない。人の話は聞いていないから、仕事の知識が増えない。思い込みで仕事をする。

 

全部、繋がっているんです。

 

そういう将来が見えてしまうし、目先の受験にもマイナスなので、ここは耳に痛くても受け入れていただきたいんですけどね。

どれほどお伝えしてもスルーされる場合は、こちらも心が折れますし、それ以上言っても無駄なのでもう言いません。

 

何度も書いてますが、語彙が極端に少ない場合は、本人が他人の話に興味がないか、あるいはご家庭で「会話」が非常に少ないせいです。それを言われるのは腹も立つでしょうし認めたくない気持ちはわかります。

でも、我が子の将来を考えたら、そこはグッとこらえて「真の原因」に向き合ったほうが子供のためになると思いますね。

「前にも教えたよね?」は禁句ではない

以前、「看護師の指導法十か条」のようなものを目にして驚きました。

どれもこれもが「今はここまで新人に優しくしないと訴えられるのか」とゾッとしましたが、とりわけ「『何度教えたと思ってるの?』はNG」という教えに驚愕です。

 

時代に逆行するようですが、一定の条件下において「前にも教えましたが」ということは言わなければいけないと考えています。

 

『何度教えたと思ってるの?』

『何度も教えたよね?』

たしかに、親や先生や先輩が、自分の鬱憤を晴らすためだけにこの言葉を使うのはいけません。効果ゼロなうえに、それは嫌がらせだからです。

 

でも、これは本人のために絶対に指摘しなければいけない点なのです。

 

何度教えても「入らない」生徒や新人というのはだいたい3つのタイプです。

それぞれに対処法は違いますが、いずれにしても「あなたは、何度も教わったことを覚えていない」ということを自覚させるのが不可欠です。

なぜなら、そこに気が付かない限り、「そうか、自分はそこを改善しないといけないんだ」と気づけないからです。毎回まるで初めて教えるかのように優しく教える、これは幼児への対応です。

 

まずは、その相手が「聞いたことを忘れている」ことを自覚させたうえで、一緒に原因を探る。原因によって、対処法は以下のように変わります。

 

1)情報が多すぎてキャパオーバーしている

本人が真面目で、かつ原因がこれだけの場合は、どこまでわかったかを復唱させ、一度に教える情報量を減らすことで、きちっと改善していきます。

会社には、いろんな新人が入ってきます。「普通できるよね?」と思ってることが覚えられない子もいます、本人は真面目なのに。そういう場合にギリギリと締め付けるのはいけません、追い詰めてしまうことになるので。そういう場合は、スモールステップで教えていけば、歩みは遅くても、いつかきちっと仕事ができるようになります。

でもこれは、本人が精いっぱいやっている場合です。本人が世の中なめている場合はこの限りではありません。2)と3)に書きますね。

 

受験生でいえば、多くの親御さんは「少しでも上のクラスに」と塾のクラス分けにこだわりますが、下手にギリギリ上のクラスに行ってしまうとかえって授業がわからなくなるのは、これが原因です。「頑張れば消化しきれる情報量」が適切な情報量です。

 

2)顔だけは頷いているが、聞いていない

多いんですよね、こういう新人くんや生徒。

ガミガミ&キーキー言われるのには慣れっこで、だからこそ「聞かない」という対処法を間違って身に着けてしまったんでしょう。

こういう相手にこそ「何度も教えたのにさっぱり覚えていないよね、覚える気がないよね」ということをズバリ言う必要があります。それが恥ずかしいことだと理解させる必要があるのです。

こういう新人くんや子供に「何度教えたと思ってるのっ!?(怒)」という言い方はまったく意味がありません。「なんか怒ってるな~」ということは伝わりますが、肝心の中身を聞いていないからです(苦笑)。

 

こういう相手には、穏やかに

「いままでに〇度教えましたね」

「それを覚えていないのはなぜかな?」

「聞いていなかったんじゃないかな?」

と段階を追って自覚させると良いです。

キーキー怒っても、相手は嵐が過ぎるのを待ってるだけなので、「自分のこと」にさせ、自分を振り返させるのです。

 

3)頭が良いぶん、自分を過信しメモを取らなくても覚えられるとタカをくくっている

ある意味、一番対処に困るタイプです。

こういうタイプは、一度聞けば「理解」はしてしまう。

理解することと覚えることは全然違うんですけど、このタイプは「わかってるのに、なんで叱られるの?」と素で思っています。

理解する能力が記憶力よりも良い能力だと思っているので、「忘れたらまた聞けばいい」と素で思っています。

だからこそ、「何度教えたと思ってるんだ!」と言わなければいけないんです。

それをビシッと言わない限り、このタイプは他人を「辞書替わり」に使います。

ビシッと言った瞬間は、たしかに相手に恥をかかせることになります。でも、後で感謝されます。

ソースは私です(笑)。

実は、東大生はそれほど記憶力は良くないです。

記憶力を問う設問を、東大が出さないからです。

東大は、「初見の問題をどこまで自分で創意工夫して解けるか」という問題を出してきます。ですから、東大生は世間のイメージとは真逆に「その場で工夫するチカラ」がかなり高いです。「見たことないんでわかりません」という東大生を見たことがありません。彼らは、それを恥だと思ってますから、見たことなくても意地で取り組みます。

しかし、これはルーティーンの軽視につながる一面もあるわけです。

世の中すべてトレードオフです。

 

「ミコトさんって、メモとらないですよね。わかってるからいいと思ってんですよね。でも、それだと僕が困るんです。覚えようとしてください」

以前サラリーマンだったとき、そう言ってくれた後輩くんがいて、今でも私は彼に感謝しています。当時、私は部署移動で後輩くんから仕事を習っていまして、自分で言うのもなんですが理解は滅茶苦茶早いので、ほかの人たちが半年かかって覚える仕事を1か月でこなしていました。でも、細かいところは覚えきれず、そのたびに指導係の後輩君を辞書替わりに聞いていたところ、あるときキレられたわけです。当たり前ですね。

恥ずかしながら、ビシッと言ってもらったおかげで、「何度も同じことを人に尋ねる恥ずかしさ」に気づけまして、その後はメモ魔になりました。

 

思考力の高い子は、ルーティーンや暗記を軽視します。

ぶっちゃけ言うと、「丸暗記はバカのすること」と思ってるんです(^^;

こういう子には「暗記を軽視して何度も人に聞くのは恥ずかしいこと」だということを気づかせなければいけません。

 

昨今は、なんでもパワハラと言いすぎな側面があるなあと危惧しています。

中学受験に必要な「厳しさ」とは~中学受験は修羅の道

前々回の記事の補足のような記事です。

ちなみに前々回は、子供の「甘え」について書きました。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

はっきり申し上げて、中学受験は、精神的にまだ幼さの残る子には向いていません。

5~6年前まではそうでもなかったんですけどね(^^;

中学受験をするにあたっては、まず何よりも越えなければいけない壁があります。

それは「子供時代との決別」です。

これを意識しないまま「中受道」に踏み込むと親子の壮絶なバトルが待っています。

 

いわゆる「子供らしい」時代。

重松清先生の描かれるような小学生像。

これは、大人の目から見ると「ザ・小学生」でけなげで愛おしい。

でも、こういう子は、まだ受験には向いていないです。

きわめて個人的な考えを言わせてもらえば、こういう「ザ・小学生」は公立中から高校受験でなんの問題もないと思っています。

 

ちょっと頑張ればできそうなことも「できない」と泣けば許される時代。

わがままを言えば最後は親が折れてくれた時代。

子供っぽくふるまうと「かわいい」と目を細めてもらえた時代。

そういう、誰しもが経験してきた甘やかな懐かしい「子供時代」に決別しないと、中学受験はとうてい乗り切れません。

つまり、精神的にはもう中学生、中長期的な損得を考えられる子が、中学受験では圧倒的に有利です。

 

幼児性を残したままの受験勉強は、親子の壮絶なバトルになります。

私は、基本的には褒めて伸ばすタイプですが(人を叱るのが苦手なので)、本人がどうにもこうにも幼児性が抜けていない場合、なおかつ本人が受験を志望している場合は、「厳しい」指導をします。

その厳しさとは、過剰な宿題を出すことではありません。

本人に、自分の甘さ=幼児性を自覚させる、ということです。

僭越ながら、この「厳しさ」を誤解されている親御さんは少なくありません。

大声で𠮟りつけてなんとか塾の宿題を泣きながらでもやらせる、これは厳しさでもなんでもありません。なぜなら、子供本人が「なぜ課題をしなければいけないのか理解しないまま」親が怒るから机に向かっているだけだからです。

中受に必要な成熟とは「何かを望むなら対価=努力を払わねばならない」ことの理解。

〇〇が欲しい!でも努力したくない!これは、幼児です。

よく「先生からも厳しく言ってやってください!」と言われ、こういう厳しさを教えると「厳しすぎる」「怖い」と言われて心外なこともたまにありますね。厳しく指導する、ってキーキー𠮟りつけることではないと思っていますけどね。

 

その意味で、中受道はまさに修羅の道です。

通常より2~3年早く「親離れ子離れ」をする必要があるからです。

子離れをし、極端に言えば「大人として扱う」ことも必要になってきます。前述の精神年齢の高い子たちは、すでに自分から親離れし、「自分の将来」を見つめています。

 

なお、現状維持あるいはちょいノビでOKな学校が志望校の場合は、この限りではありません。それでも、幼児性を残したままの中学受験突入は、親御さんのイライラがつのる一方ですので、個人的にはあまりお勧めしませんが…。

 

ダブルスタンダードな親に聞きたい

これまでにも、親御さんの「ダブスタ」には書いてきました。

今日は「どこまで厳しくするかは目標とトレードオフです」という話を書きます。

 

ダブスタの親御さんは、講師に「両立しえないこと」を望まれます(苦笑

これが非常に困る。

例えていえば「一切食事制限したくないけど痩せたい」です。

 

個人コーチをつける場合、

・成績優秀者がさらなるレベルアップを望む

・塾についていけていないので、そのサポート

のどちらかです。

後者の場合、原因は

・能力不足(努力はしている)

・努力不足(能力はある)

のどちらかです(両方というケースもありますが)。

 

過去記事でも書きましたが、すごくザックリいうと

・中受は才能

・高受&大受は努力

です。

中学受験は、本人が心身ともに成長しきっていない段階でのレースになります。努力不足の場合は、後からの追い上げが可能ですが、これまでずっと頑張ってきた場合、その時点での能力をはるかに超えた目標設定はやめてあげてほしい。

 

一方で、能力はあるのに努力不足のケース。

これは、

・やるべきことをやれない

・楽しみを優先する

・約束が守れない

場合が多いです。で、これらはもはや「躾」の範疇なんですよ。

ですから、こういうお子さんが駆け込みでいらした場合、まずはそこからやり直さなければいけません。

 

ここで、トラブルが起きがちです(^^;

 

ダブスタで高め狙いの親御さんほど、普段はお子さんと相当熾烈なバトルしています。

こういう親御さんはもれなく「先生からもきつく言ってやってください!」と仰います。でも、その言葉を信じると馬鹿を見ます(苦笑

約束が守れない、とか。

目先の楽しさを優先する、とか。

そういったことへの指摘が、「ダブスタお母さん」には「自分の子育てが否定された!」と感じられるみたいなんですね。まあ、半分くらいは実際そうなんですけど。

ドラゴン桜にも書いてありましたが、小6までに「当たり前のことが当たり前にできるようになっている子」というのは、そのあとグイグイ伸びます。勉強法を切り替えればいいだけですからね。

でも、宿題をしない、笑ってごまかす、逆にふてくされる、教わるときに立膝タメ口、こういった子は、まずそこからやり直さないとダメです。

 

子供に「あるべき道」を説くと「私(の育児)が否定された!」と逆ギレするお母さんは結構いらっしゃいますが、勘弁してほしいです。

ぶっちゃけ、そういうお母さんほど、普段は「よくそこまで汚い言葉で子供をののしれるなあ」という激しさで子供を叱責しています(これは間違った指導ですけどね)。でも、他人が淡々と「いまの君はぬるい、甘えている」と指摘するのは見ていられないんでしょうね、自分のことに思えてしまうから。

 

当たり前のことができていない子、あるいは偏差値ギャップ10~20の高め狙いをしている子の選択肢は、2つに1つです。

 

・今まで通りヌルくやって、実力相応校に入る
・チャレンジ校を目指すため、厳しい道を選ぶ

 

どっちでもいいですよ、そこは個人の価値観なので。

でも、ヌルくやりながら偏差値20アップはあり得ないです。

スポーツや芸術なら当たり前だと思うんですけどね。

五輪選手の親がコーチ陣に「ウチの子にそんな厳しいこと言わないでください!」とクレーム入れるのは想像できないですよね。

 

高みを目指す、というのは孤独な厳しい道です。

そこを理解せずに子供をやみくもに「中受道」に駆り立てているケースが多いように感じますね。

 

ダブルスタンダードな親御さんに聞きたいです。

あなたの目標は何ですか?

偏差値20以上ギャップがあるチャレンジ校への合格ですか?

ならば、厳しい指導にも耐えられますか?

それは本人の意志ですか?

厳しい指導が嫌ならば、我が子なりに成長することでちゃんと満足できますか?

 

小学生女子の扱いの難しさ~「テヘペロ」

初めにお断りしておきますが、男女の学力差が云々という話ではありません(汗

 

長年、小学校低学年から社会人まで教えてきて、「小学生女子」に特有の扱いの難しさがあることを感じるようになりました。(小学生男子は男子で特有の問題点があるのですが、それはまた別記事で)

そして、その原因は「小学生女子は、多くの場合『かわいい』と言われて育つ」ことと無関係ではないんじゃないかなと感じております。

もちろん、すべての小学生女子がというつもりはありません(汗)。親御さんが、塾のほかに個人コーチを頼む必要を感じるケースの中で、男女それぞれに問題の原因に違いがあるなという、いちコーチの体験談です。

あくまでもマンツーの場においての話、とお読みいただければ幸いです。

 

1)できないふり

もう一歩本気で考えたら、その子の実力から考えて解けないはずがない問題を「できない」と決めつけてそれ以上解こうとしない子。

そういうときに甘えた表情をし、許してもらうのを待つ子は、黄色信号です。

本気で考えてできないならしかたがない。

でも、無意識に甘えを見せる子というのは、そうふるまえば大人が「しょうがないなあ(^^)」と言いながら手を差し伸べてくれると学習してしまっているケースが多いです。

 

今はだいぶ時代が変わっているとは思いますが、それでも「できない」ことが「かわいい」と言われ許される環境、女子が本気を出すと怖いと敬遠されがちな環境が、もしかしたら影響しているのかもしれないと思うと、胸が痛みます。

 

2)察してくれるのを待ちがち

私の生徒は男女だいたい半々ですが、問題がわからなかったり注意されたりすると途端にブスッとして不機嫌を露わにし、大人がご機嫌を取ってくれるのを待つのは圧倒的に女子が多いですね(^^;

私は常々「『不機嫌』で相手を支配しようとするのは傲岸不遜」だと教えていますが。

不機嫌にすると周りの大人が気を遣って構ってくれるので、誤学習している可能性が大きいですね。

こういうお子さんも、慌ててご機嫌を取りにいったりせずスルーしていると「なんだ、効果なしか」と悟ってあっさりそういう行動をやめます(笑)。

だから、ここで大人が下手に出るのは悪手です。

根比べなんです。

でも「仕事を切られたら困る」と考える講師は、そこでご機嫌を取ってしまう。それは一番のタブーです。子供がさらに誤学習するからです。「人気の高ギャラ講師に頼め」とこのブログで時々言っているのは、それが理由です。仕事に困っていると、生徒に低姿勢に出てしまいますから。

 

3)テヘペロでごまかしがち

もちろん、笑顔は大事です。

2)の「察してくれるのを待っている子」は口をきかず無表情なことが多く、それはそれで困るわけです。他人と相対するときに、適度な笑顔は最低限の礼儀です。

でも「笑うべきではないところで笑う子」は黄色信号です。

いわゆるテヘペロです。

テヘペロ」は、男女問わず低学年では許されるでしょう。

でもそのうち、男子は自然とやめる子がほとんどです。

 

男子のテヘペロを「しょうがないなあ、こいつぅ(^^)」みたいに許す「環境」が高学年になるにつれて激減していくからだと思います。

 

いや、いいんですよ?テヘペロずっとやっても。

自分が損するだけですから、力がつかないという意味で。

 

「結果」を叱ってはいけませんが、やるべきことを面倒がってやらなかったときのテヘペロは許してはいけません。なぜなら、「テヘペロで世の中渡っていける」と勘違いするからです。いずれテヘペロが通用しなくなる歳がきます。大人のブリッコって一番醜悪ですからね。

 

小学生相手に過剰に厳しくせよ!と言っているのではないです。

このブログを読んでくださっている方なら、私が小学生を「追い込む」ことを嫌悪しているのはわかってくださっていると思いますが。

テストの点数や偏差値で小学生を追い込むことはやめたほうがいいと思っておりますが、それとこれとは話が全然別です。

やるべきことをやらなかったときには大人は毅然としていないといかんだろう、ということです。そしてそれは、長々と説教しろとか首根っこ押さえつけて支配しろ、ということとも全く違います。「子供の、許してもらうための甘えた演技」に対しては、心を鬼にしてスルーしたほうがいい、という意味です。

そうしないと、いずれ社会に出た時に本人が一番困ります。

東大2姉妹の母親は何をしていたか~私の場合

20年以上前の話なのであまり参考にならないかもしれませんが、恥ずかしながら私の親がどういう接し方をしてくれたか、そして私がどんな子供時代を過ごしたか、ご参考までに書いてみます。

ちなみに、私は姉妹揃って東大です。

そして、母は高卒です。女性が高卒なのは当たり前の時代で、それでも祖父は女子大に入れようと画策していたようですが(笑)、母は社会に出たいとさっさと就職決めてしまったそうです。

 

1)幼稚園時代

やりたいことは、全部やらせてくれました(可能な限り)。
幼稚園時代の記憶ってあまりないんですけど

・ザリガニ&メダカ釣り

・木登り

・絵本作り

などをしていた気がします。

私の母は、メダカ釣りたいと言えばせっせと肉団子を作ってザルに入れてくれました。

私はアウトドアもインドアも好きだったんですが、母の口癖は「お日様と勝負!お日様が出ている間は外で遊んでおいで!」でした。

 

2)小学生時代

・時計の分解をはじめとした「実験」

・絵本作り

・漫画

・野球

に夢中な小学生でした。

好奇心の塊だった私は、家中の時計を分解してみたり、学校で「でんぷん」を習えば即家に帰って家中のジャガイモからでんぷんを取り出したり、好き放題やってました。それだけではなく、家でできる、ありとあらゆる「実験」のために結構家の備品を破壊した記憶がありますが、それで叱られたことはゼロですね。

「科学と学習」も両方取ってもらって、夢中になってやってました。

男子と野球をやりまくり、しょっちゅう青タン作ってました(笑

勉強しろ、と言われた記憶は一切ありません。

 

その代わり、それだけは烈火のごとく怒られたのは「友人を傷つけるふるまいをしたとき」です。その頃の私には、それがなぜそんなに悪いのか理解できませんでしたが、あの頃母が「身の回りの人を大事にしろ」と叩き込んでくれたことに、いまでも感謝しています。

 

まあ、昭和ですし、今から考えるとトンデモな先生もいたし、一方で今でも尊敬している先生もいました。でも母が先生の悪口を言っていた記憶が一切ありません。

私はかなり猪突猛進で気まぐれでワガママな小学生でしたが、母が学校の悪口を一切言わなかったことで、先生の言うことは真剣に聞き、その中で「自他の折り合い」「社会のルール」を学べた気がします。

 

昨今は、Twitterなどで「公立の先生はクソ」という発言を見ることが多いです。

正直、ちょっと行きすぎかなと感じております。

重箱の隅をつついて「先生はクソ」と教えると、子供も真似します。

自分の努力不足の結果でも、人のせいにするようになります。

 

話を戻しますね。

そして、この頃から母が工夫してくれていたのが

「お母さん新聞」

です。母が、ありとあらゆるジャンルから面白そうなことを拾って「手作りの新聞」にして、トイレに貼ってくれていたのです。

姉妹ともに、本当にこれには夢中になりました。

ミステリあり、クイズあり、さまざまでしたが、今思うと特徴は「視聴者参加型」とでもいうのでしょうか、読んだ私たちが競って「考える」ような作りになっていました。

 

この「おかあさん新聞」は、できれば中学受験のお子さんを抱えた親御さんにこそトライしてもらえればと思っています。もちろん、年々過熱するばかりの中受でそんな余裕はないのはわかります。でも、トイレに「覚えなさい」というものばかりが貼ってあるより「楽しめる」ものが貼ってある方が、断然子供の好奇心とモチベーションを上げると思います。

 

トイレに「覚えなさい」とばかりに日本地図や九九を貼ってあるご家庭は多いと思いますが、もしできるなら、そこにご家庭ならではの「工夫」をひとさじ入れてあげるだけで子供はうってかわって夢中になると思いますよ。

3)中学生時代

・漫画&アニメ

・カメラ

にのめり込んだ三年間でした(笑
当時はもちろんデジタルなどありませんから、手書きで「セル」を描き撮影し、カクカクながらアニメ映画を作ったりしていました。

手塚治虫先生・松本零士先生・いがらしゆみこ先生に夢中でした。

 

また、雲を撮るのに夢中になり、「いい雲が出てる!」と言っては一眼レフを持ち出し撮影しまくっていました。当時はフィルムカメラでしたから、現像代もかなりなものだったと思います。親と一緒に写真屋さんに行って、現像代が「〇万円」と言われていた記憶もあります。が、それで親から文句を言われた覚えが一切ありません。

 

ぶっちぎりの学年トップだったおかげもあるでしょうが、この時期も親から「勉強しろ」と言われた記憶はゼロで、むしろ、漫画アニメ&カメラに夢中な私を心配して、母親はしきりと私のザンバラ髪を可愛く整えようとしたりしていましたね。

この時期も、引き続き人間関係にだけはうるさかったです。

ちょっとモテていい気になって男の子を振り回すような行動をしているのが母親にバレて殴られたのは、今でも記憶に新しい(苦笑)。

 

試験勉強をしていると「買い物に行こうよ」「映画に行こうよ」と誘ってきたのも、母なりの「普通の女子中学生になってほしい」という願いだったんだと思います。興味ないのにファッション雑誌が机の上に乗せられていたり(笑

放っておけば「リケジョ」一直線でしたから、女親としては心配だったんでしょうね。

 

4)高校時代

ぶっちぎりのトップ入学をした私は、何を間違えたか「高校デビュー」してしまいました(笑)。別にそれまでも好き勝手やってきたので抑圧の反動というわけではありません。たぶんあれですね、優等生に見られたくなくてカッコつけたんですね。
しょっちゅう高校もサボってました。

当然、成績は急降下。

でも、ここでも母は何も言いませんでした。

いや、言ってたな。

「高校に入ったら、もう自分で決めること。どう生きるかは自分で選びなさい」

見放された気がしてちょっと寂しくもあり、そこで反省すればいいのに、私はますます「ファッション不良」の道を突き進みました(笑)。

2年間、ほとんど学校で最下位でした、成績。

でも、どこかで母親の言葉が響いてたんですね。

本当に、母には感謝しかありません。

高校三年生で初めて「模試というもの」を受け、「自分には行ける大学がない」とわかり青ざめ、そこからの猛勉強でなんとか東大現役滑り込みセーフ。

 

5)東大時代&それ以降

まあ、セイシュンですからいろいろありましたが(笑)、最高の4年間でした。

親が好き勝手やらせてくれたおかげで、もちろん将来も自分で決めるものだと思い込んでましたし、好きな会社受けてそのあとはしばらく企業戦士してました(笑
一通り、ビジネスの達成感も得られたので、本来の「好きな仕事」すなわち「教える仕事」に戻ってきた感じです。

 

6)まとめ、のようなもの。

もちろん、昭和と今とでは状況が違うのはわかっています。

「選別」がどんどん低年齢化する昨今、「バスに乗り遅れる」恐怖はわかります。

でも、結局のところ、子供は他人です。別人格です。

「本人が何を望むか」で、人生の方向は決まります。

そして、それは「いつだったらもう遅い」ということはありません。

「バスに乗り遅れる」ことをそこまで恐れる必要はありません。

 

中受のサポートをしている身で言うのもなんですが

中受で人生は決まりません。

 大事なのは「その子がどれだけエネルギッシュか」です。

思い通りになる子は、たしかに小中では楽でしょう。

でも逆に、高校以上では主体性のなさが心配になることでしょう。

 

小中高時代に

・好奇心

・主体性

・克己心&自律心

を身に着ければ、あとの人生はどうとでもなります。

 

むしろ、「本人の力」が試されるのが高校受験であり、大学受験です。

そこでは「努力」がモノをいいます。

中受は「先行逃げ切り」です。

レースの戦い方はそれだけではありません。

10~17歳の多感な時期は、二度と戻ってきません。

(その意味で、私は以前も書きましたが佐藤ママには反対です。友人関係にしろ恋愛にしろ、趣味に没頭するにしろ、「あとで取り返し」はききません)

中受をゴールと思い、焦らないでいただけたらと願っております。

 

講師は親のここを見ている(4)~タテマエは百害あって一利なし

中高生になると、本人が自分で、自分の言葉でコーチと話し合うことができます。

中学生だと多少は親御さんの出番もありますが、高校生ともなるとほぼゼロ。

対照的に、小学生すなわち中学受験では、本人はほとんど何もしゃべらず親が志望校はじめ、ほぼすべてを取り仕切るケースも多いです。そこでは、親とコーチの意思疎通が非常に重要になってきます。

そこでぜひともお願いしたいこと。

タテマエはやめてほしい、子供のために。

我々は、お医者さんみたいなもんです。

ホンネを隠されると、指導方針が「その子のため」になりません。

 

今回は、志望校についてのホンネとタテマエ、また「指導の厳しさ」についてのホンネとタテマエのギャップが引き起こす弊害について書きます。

 

 

1)志望校についてホンネとタテマエが違う場合

 

ホンネ<タテマエ のケース

「本音では〇〇に入ったら御の字なのに、××(偏差値ギャップ15以上)が本命というタテマエ」をコーチに言いつづけるケース。

いわゆる「駆け引き」なんだと思います。

子供に対して「〇〇でいいよ」というと緩んでしまうので、あえて高い目標を掲げる。うん、子供に対してはそれでもいいです(やりすぎは禁物ですが)。でも、個人コーチには本音を話してください。

 

個人コーチにも「あくまでウチは××希望」とウソをつくのって、ためにならないです。

もしかしたら、親御さんには「志望校を下げて伝えると、コーチが手を抜くのでは」という恐れがあるのかもしれませんが、その懸念は不要です。なぜなら、我々「教えたがりの人間」というのは、その子の資質を見極め、できる限り伸ばしてあげたいと思うのが当たり前だからです。

たとえ親御さんから「楽勝」な志望校を言われたとしても、手を抜くことはあり得ませんし、親御さんと同様、高め狙いで指導をします。

「ホンネでは狙っていないチャレンジ校」を「なにがなんでも」と虚偽を言われると、こちらとしてはホンネと受け取らざるを得ず、その子には無茶な負荷をかけるなどして「ホンネの志望校すら受からない」リスクが大いにあります。

偏差値下げたら楽勝、なんてことはないです。

受験勉強に「大は小を兼ねる」はありません。

特に中学受験の場合は、「志望校対策」がものすごく大事です。

御三家向けの勉強をしていたから中堅校はノー勉で受かるというのは幻想です。 

さらに、子供の側からしてみれば、今まで何が何でも××と言われていたのに急に〇〇と言われても不信感が増すだけですよね。2月直前の志望校下げが、偏差値を下げた割には成功しない理由もここにあります。

 

どうか、コーチを信じて、ホンネを伝えてください。

そうすれば「本来の志望校にちゃんと受かる」ためのカリキュラムをもって、お子さんに一番良い指導ができますから。

 

ホンネ>タテマエ のケース

これがまた厄介なんですよね(^^;

タテマエでは「子供が幸せになってくれればいいので」「私は〇〇でもいいので」と言いつつ、ホンネでは××(偏差値10以上ギャップのあるチャレンジ校)を夢見ている。夢見ているだけならいいんですが、心のどこかで「コーチがうまく導いて、あるいは子供が勝手に覚醒して、私の夢をかなえてくれるんじゃないか」と思っちゃってる。

これ、本当にまずいです。

親として子供と対峙して高い目標を言い渡すことから逃げ、子供が自発的に高い目標を持つように、あるいはコーチが子供をその気にさせるように願っている。ちょっと他力本願が過ぎやしませんか、自分の子供のことなのに。

こういう親御さんは、子供に「いい顔」してるんです。

あるいは、「良い親」を演じたいのかな。

こういう場合、親御さんが「人に言えないフラストレーション」を溜めてしまう。

もっと正直に、コーチには「本音では××行ってほしい、でも我が子の実力から考えると〇〇が妥当だとは思う、でもそれで良しとは子供には思ってほしくない」という本音をぜひ伝えてください。親御さんのそういう本音がわかれば、こちらにもやりようがあります。

 

2)指導の厳しさについてホンネとタテマエが違う場合

 

昨今、センター経由のどのご依頼も、ほとんどもれなく「叱らない先生」「やさしい先生」「モチベーションを上げてくれる先生」というリクエストつきです(苦笑)。
いや、気持ちはわかります。

個人コーチを頼まざるをえないお子さんの多くが、塾で伸び悩み、自己肯定感を失っています。だからこそ、最初は「褒めること」がものすごいブーストになります。

 

でも、「褒めて伸ばす」だけではいずれ限界が来ます。

 

何度も書きましたが、本人に「なにがなんでも金メダル」という強い意志がある場合は、褒め続けるだけでもいいかもしれません。なぜなら、本人が自分を律することができている、ストイックになれている、からです。この場合、金メダルを目指すアスリートと同様、本人がみずから厳しい練習をしますから、こちらは適切なコーチングをし、褒めて自信を持たせてあげることがベストです。

 

でも、個人コーチを頼むケースの多くでは、本人にはそこまでのモチベーションはないですよね。むしろ「やる気が見えない」「受験が自分ごとじゃない」ケースがほとんどです。

こういう場合、一通り褒めて自己肯定感が上がり自信がついたならば、現実を考えてシビアにならざるを得ません。

なぜならば、塾で下位クラスの子が自信をつけて「ちょいノビ」したくらいでは、志望校にはとうてい届かないからです。「褒められるからやる勉強」から「真の意味で自分のためにやる勉強」に切り替えなければならない時期が、来ます。

 

コーチ業として一番困るケースが、

・ほめて伸ばすコーチを希望

・ホンネは偏差値15以上の学校の合格を希望

ダブルスタンダードです。

 

これは、非常に難しいです。

 

どこかのタイミングで「いまの勉強の仕方じゃ足りないよ」と言わなければいけなくなります。でも、その切り替えを受け入れられず、

・あくまでも生徒には優しく

・結果はトップ

を望む親御さんが、少なくありません。

でも、それは無理です。

 

学問に限らず、スポーツでも芸術でも「ある程度のライン」までは、「楽しく」上がれます。それ以上の戦いというのは、ときとして辛く孤独なものです。どんな分野のトップ争いでも「楽しみ」はありますが、「楽しいだけでは無理なレベル」が存在します。

個人コーチに「どこまでを望むのか」は、今一度本人と親御さんがきちんと考えるべきことだと思います。

 

3)「察してくれ」はナシ

いや、もちろんある程度はお察しいたしますよ、こちとら「対人業」なので。

ホンネではこうなんだろうな、という推察はできます。

でも、「こちらが察したホンネ」をもとにカリキュラムを組んだり指導の厳しさを変えたりは、できないんです。

こちらとしては、あくまでも親御さんから言われた「志望」に従ってやらざるを得ないんです。「自分では言いたくないけどコーチが本音をうまく察して我が家にベストな指導をしてほしい」は無茶振りです(苦笑)。

お子さん本人の、親御さんの「ホンネ」はどこにあるのか。

それを、秋以降ますます「現実」と相対峙せざるを得ないこの時期に、今一度考えてほしいなと思っています。