とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

東京は子育てに向いていないんじゃないだろうか

過熱する一方の中学受験の指導をしていて、日々思うことがある。

それは、東京という特殊な街は、子育てには向いていないんじゃないかということだ。

 

理由はいろいろあるんだけど、一言で言うと

「〇〇をしていい場所」が非常に細かく決められているということだ。

 

乳幼児~小学校くらいは、生き物としてとにかく体を動かしたい時期だし、また動かすべきだと思う。

また、自然からさまざまなことを学べる時期でもあると思う。

その時期に、東京では、都心に二百坪を超えるような土地を持っている「先祖代々勝ち組」以外は決められた時間に決められた範囲でしか身体を動かせない。

(マンションで子供を「放牧」するのはお勧めしない。下の階から間違いなく〇意を抱かれていると思う)

 

保育園の騒音問題では「うるさいと思うほうが人間としてダメ」のように言われるが、それも違うと思う。保育園は、たいがい「後から」できる。そして、できてしまった以上、未来永劫うるさい。保育所をうるさいと思う人を人として狭量だという方は、ぜひ保育所の隣に引っ越してみていただきたいと思う。

 

話が逸れてしまった。

保育所うるさい問題」も、東京だからこそ起きる問題。

そして、東京には「空き地」がない。

権利関係がもつれたためかずっと空き地の場所もないではないが、そこは子供が遊べる場所ではない。

つまり、東京で暮らす以上、子供は「空き地で遊ぶ」ことは難しい。

 

私立小学校の子を教えたことも数多くあるが、その子たちの暮らしはまさにサラリーマンだった。中には小学生で通学1時間半の子もいた。

家と学校が離れている以上、「小学校の友達と遊ぶ」ことはほぼ無理。

家と学校の往復。

身体を動かせるのは学校での体育の時間と(通っているならば)スポ小やバレエの時間に限られる。

学校の友達は「学校の中だけの」友達。

毎日「日課」が細かく決められている。

〇曜日はバレエ、〇曜日はスケート、〇曜日は塾、etc。

 

最近は、中学受験が過熱しすぎて「塾に通わないと高学年では遊ぶ相手がいない」現象が起きている。これは、東京都心だからこその現象だろう。自分は、自分の子は中受をする必要を感じていなくても、周りがみんなそうだから「向き不向きを考えず」やらざるをえない。

 

初めは「みんな行ってるから」「行かないと放課後遊ぶ相手もいないから」行き始めて、それが簡単に「中受をして少しでも偏差値の高い学校に受かるべき」と変容する。

 

東京都心に住む以上、これは避けられないことなのかもしれない。

 

私自身は、東京近県で幼少を過ごし、大学で東京に出てきてそのまま東京のど真ん中に住んでいるが、東京の環境というのは「大人だから耐えられる」んじゃないかと思う。

 

旅行などで地方を訪れると、いつも思うことがある。

「ここで生まれ育ったら、もっと違う人生があったんじゃないか」

もちろん、ないものねだりなことはわかっている。

地方在住の方からしたら「それは東京を満喫しているから言えることで、地方には仕事がないんですよ」と言われるかもしれない。

でも、東京はたしかにチャンスも仕事も多いし給料も比較的高いけれど、その分生活費が馬鹿高い。結局トントンだと思う。

 

中受指導をしていると、多くの親御さんが「少しでも偏差値の高い学校に」と願っていらっしゃるが、「その先」を考えたことがあるだろうか。

ずば抜けて学力が高く研究者や起業家になるならともかく、つまるところ「給料の良いサラリーマン」がゴールなのでは?

私は二度と「人に雇われる仕事」が御免なので、「高く雇われる」ために22歳までのすべてを賭けるのは、なんだかおかしいなあと思っている。

 

中受に関しては、今期が終わり次第指導をやめる(多少は残るが)。

「それは昭和の発想だよ」と言われそうだが、私はやはり中学受験は昭和くらいのノリが良いのではないかと思う。

それはどういうノリかというと。

「地域に良い学校があって、一応受ける人はお試しで受けてみるけど、落ちても全然恥ずかしくなくて公立中に進む」というノリ。

今は、東京に住んでいてひとたび中受を目指した以上、「降りる」ことができない状況でそれはとても親子ともにしんどいんじゃないかと思う。

 

東京で育児をするということは

・幼児期に身体を思い切り動かせない

・「〇〇用の場所」でしか〇〇が許されない

・小学校高学年からは学校の友達と遊べない

ということとバーターだと思う。

動画中毒の子供たち~「ウチは大丈夫!」は危険

ここ数年「子供が動画中毒で困る」という相談が急増しています。

(「ウチは大丈夫!」は残念ながら通用しません。これは最後に書きます)

 

さて、急増している相談とは。

たとえば

もう6年なのに、隙あらばタブレットYouTubeを見ている、取り上げると暴れる。

中高生は自分のスマホを食事中でも手放さない、取り上げると暴れる。

 

取り上げると暴れる、までいくと完全な中毒ですね。

ドラッグと一緒ですね。

なぜ、そうなる前に止められなかったのか。

手厳しいことを言いますが、これは完全に親の責任です。

 

中毒になってからでは遅いのです。

 

ご相談に来られるご家庭には共通点があります。

*幼少期に「タブレット育児」をしていた

*親自身が常にスマホを手にしている

*「いますぐデバイスを取り上げてください」と言っても実行しない(できない)

 

幼児期に「YouTube見せとくと静かだから」と安易に与えるご家庭非常に多いんですけど、そのツケは小中高で払わねばなりません。

 

面談のときに無意識に片手でスマホを握っているお母さん、ものすごく多いです。子供は親をよく見ています。親がやめられないものを子供にやめろと言って聞くわけがありません。ご両親が「歩きスマホ」「寝ながらスマホ」していないか、今一度振り返ってみてください。

 

大人のスマホ中毒もたいがいですが、さすがに大人は「暴れる」はないですよね(一部除く)。では、なぜ今の小中学生はスマホタブレットを取り上げると暴れるか。それは、「自我や理性が育つ前にデバイスを与えてしまったから」です。自我が確立すればするほど、躾けは入りません。安易に手を出して、離脱するのに壮絶な苦しみが伴うのもドラッグと同じですね。

 

我が子をネット中毒にしないためには、まず幼少期に安易に触らせない、親自身もネットとは節度ある付き合いを心がける(歩きスマホなんてもってのほか)ことが大事ですが、もし不幸にしてその時期は過ぎてしまい、すでに子供がYouTube中毒になっていた場合はどうするか。

 

たとえ一時的に家が荒れようがどうしようが、断固たる決意を持って&心を鬼にして「取り上げる」しかないのではないでしょうか。

 

多くの親御さんは「でも&だって」で結局実行されませんけれどね。

「取り上げると家を破壊するから」と仰いますが、子供が中毒から抜け出せるなら壁の一枚や二枚、安いもんじゃないでしょうか。「暴れるから与える」って、まさにドラッグ中毒患者にドラッグ渡すのと同じですよ。

 

そもそも、どうして小学生が自由にタブレットを触れるようになっているのか私には理解できません。たしかに、子供はそういうところだけは知恵が働きますから(笑)、完全にコントロールするのは手間がかかります。でも、その手間を惜しまないご家庭では、きっちりコントロールできています。

 

今からでも遅くはありません。

「無理」「大変」と手間を惜しまず、大事な我が子を中毒から救いましょう。

 

最後に「ウチは大丈夫」は危険、という恐ろしい事例をお話します。

数年前のことです。

かなり地頭の良い生徒さんで、授業時の飲み込みは速い、でも最後まで偏差値は伸びなかった子がいました。第一志望はおろか、塾から太鼓判を押された安全校にも不合格でした。実は、一人の時はずーっと動画漬けだったことが後から発覚しました。さらに悪いことに、夜中ベッドの中でもタブレット見放題だったので常に睡眠不足でした。その子だって、もし物理的にデバイスを取り上げられていたら、憑き物が落ちたようにネットのことを忘れられた可能性が高いです(スマホを手放せない大人だって、充電できない場所で充電切れたりすればストンと諦められるのと一緒です)。

「なぜもっと早く気づかなかったのか」と放心されていたお母さんの表情が今でも忘れられません。

 

中毒患者は、ドラッグを切望するのと裏腹に「止めてほしい」とも思っているのです。

なぜなら「自分では止められないから」です。

 

「ウチは大丈夫」と思わないでください。

早く寝ているはずなのになぜかいつも眠そう。

いつもソワソワしている(ひとりになりたがる)。

こういうケースは、ほぼ自室で動画見ていると思っていいです。

自室で長時間勉強している割には、いつまでも同じ基礎問題を間違えるという場合も動画漬けの可能性は高いです(これは、ほかに原因がある場合も多いので断定はできませんが)

 

小学生には、まだ「自分で我慢する」ことは無理です。

*どんなに子供が暴れようと、自室にタブレットは持ち込ませない

*勉強はリビングでさせる

*共働きなどでリビング学習が無理ならば、親の不在時にはPCやタブレットが使えないようにしておく(金庫などにしまう、あるいはWi-Fi切っておく、など)

 

「スティージョブズは我が子にiPadを触らせなかった」のです。

猫に受験させますか?

いささか挑発的なタイトルになっておりますが、誤解なきよう。

もちろん「お子さん=猫レベル」と言う話ではございません(笑)。

 

犬や猫、小鳥、ハムスター、はたまたハリネズミなどなど。

同居動物(造語です。ペットや愛玩動物と言う言葉が好きではないので)は、「もう、そこにいるだけでいい」という方が多いのではないでしょうか?

そういったワンコやニャンコに「受験」させる方はいないと思います(笑)。

それ以前に、まず「よその子と比べる気にならない」んじゃないでしょうか。

もっと美しかったらいいのに。

もっと賢かったらいいのに。

そういう想いを同居動物に抱く人はほとんどいないんじゃないでしょうか。

「となりのレトリバーくんは、もう『お手』をマスターしたというのに!(怒)」なんて、想像するだけでおかしいですよね(^^)

 

もちろん、一緒に暮らす以上、「我が家のルール」は最低限しつける必要はあるでしょう。トイレやごはんや爪とぎなどなど。

それ以上は求めない。

それはなぜか。

それは、「ほかの犬猫と比べなくて良い」からじゃないのかな。

ほかの子と比べなくて済むなら、ただただ愛情を注げる。

 

「子供」は巣立っていくんだから、ずっと家の中で保護できる犬猫と一緒にするな。

というお叱りが聞こえてきそうです。

これはもちろんわかります。

でも、もし自分が育てている犬猫が「成長したら野に放つ」というルールだとしたら。

真っ先に身につけさせたいことは「生きるチカラ」だけなんじゃないでしょうか。

すなわち「自分で餌をとること」「わが身を守る知恵」。

「犬猫界の偏差値〇〇にしないと外に出せない!」ということは、ないと思うんです。

 

なんでなのかなあ。

やっぱり人間は、多くの生き物と違って「親子関係がずっと続く」からなのかなあ。

あるいは、血のつながり=遺伝子の繋がりがあるから「子供の評価=自分の評価」になっちゃうのかなあ。

 

私は、子供には「幸せを感じるチカラ」を身に着けてほしいと思う。

その能力がないと、どれだけお金があろうと出世しようと「不幸」なまま。

それは、人と比べて優位にいないと不幸に感じてしまうからだ。

まだ世の中を知らず、価値観が定まらないうちに「偏差値と言う尺度」を植え付けられてしまうことは、長い人生を考えるとすごく怖いことだと思う。

 

私が(行き過ぎた)中受に懐疑的で高受&大受推奨なのは、それが理由です。

15にもなれば、「なにがなんだかわからないうちに受験することになってる」という事態は少なくともありえない。人間が社会的動物である以上、そこには多かれ少なかれ制約はあるだろうけれども、その中で「自分の意志で」選んで受験できる。

大学の偏差値ですら誤差だと私は思っているけど、「自分で選び、挑戦する」という意味で高校受験や大学受験は最高の腕試し&試練だと思う。

 

たぶん、高校受験や大学受験こそ、「巣立ちの儀式」なんだと感じている。

「親」は「親」をかばうんだなという感想~「翼の翼」

昨日の続きです。

「翼の翼」、親が狂気に取り込まれていく過程や、親同士のマウントの取り合い、私立に行かない子を過剰に見下げる描写など、非常にリアルだっただけに、ラストに納得いかない思いがくすぶっています。

読後、思い出されたのが「次男を投げ落として殺害した母への減刑嘆願署名」でした。

以下、ゆるバレ含みますので改行します。

 

 

 

 

 

 

昨日も書きましたが、我が子と言えど「他人」。

他人を「追い込んだ」人間は、なんらかの報いを得ないと読者は納得しない。

あれだけ追い詰められて潰された翼が父親の母校を選んでしまうというのは、まだ呪縛から自由になっていないという証。

翼くんは救われてほしかったが、父母は報いを受けるべき。

例えば、見栄っ張りの円佳にしてみたら、我が家の実情が近所やママ友にバレるのも報いの一つでしょう。父親もしかり。会社にバレるとか、あるいは息子が荒れてパトカー騒ぎになるとか、そういうのがあの家には必要。

翼くんは、父親の母校に背を向けて函館ラサールとかに入って両親と訣別するべきだった。あの子には、親との決別が不可欠。

でも結局、翼くんが全部背負いこんで終わってしまった。

 

どうして親が報いを受けないんだろう、とレビューをググってみたら真っ先に目に入ったのが著者のインタビューでした。

www.bookbang.jp

なーんだ、結局著者の朝比奈さんが中受親だったから、あの結末になったのね。

あそこまで潰しておいて「明るい未来があると思ってる」ってそりゃないだろ。

もし翼くんが「明るい未来」に行くとしたら、それは翼くんが全部飲み込んで自分で頑張った結果だよ。でも、ここで親ときっちりカタつけないと、見た目は良い大学に行ったり良い会社に行ったりしても、心の中にくすぶって後を引くけどね。

なんであの両親が恥をかくとかいう展開にできなかったのかね。

まあでもそりゃそうか、自分のやってきたことを「断罪」はできないもんね。そういうのは湊かなえさんにしか期待できないのかな。

 

作中のコンコルド効果、については高校の教科書に載ってますね。

私は、著者の朝比奈さんがあの結末にしたことこそ「コンコルド効果」だと思います。

自分が壮絶な中受をやってきてしまった、でもそれを悪いことだとは思いたくない。

無駄だとは思いたくない。

だから、「父親と言う新たな悪役」を出し、「母親は悪くない」という流れにもっていき、そして、翼が中受を続けると言った(言わせたんでしょう?)ことで「中受自体は悪くない」という結末にしてしまった。

「二月」もそうなんだけど、「当事者」が描くとやっぱりそっち寄りになっちゃうからね、「当事者」は十年は書かないほうがいいんじゃないかなあ。

 

コンコルド効果で言うと、これはここでも何度も書いているんですが、中受した方の「公立中高憎し」ってすごいですね(笑)。そりゃそうか、小4~6まで塾だけで300万、私らみたいな個人講師頼んだら青天井、中学入学までに手付金含めてすでに500~1000万使っちゃったりしてるもんね。それはそれで個人の選択だから別にいい。でもさ、「翼の翼」の中にもそういうママが出てきてたけど、だからって公立をボロクソに言うのは間違ってるよね。だって公立中の実態知らないじゃん。いまや公立中って「普通」ですよ。金八の時代とは違いますし、金八時代でも、割と子供同士はお互い「住み分け」しててうまくいってた。私立を選ぶのは個人の選択だけど、知りもしない公立をボロクソに言うのは「コンコルド効果」だなあと思っています。

 

さて、この本を読んでなぜか思い出されたのが、ある母親が三人兄弟の中で育てにくいと感じた次男を投げ落として殺してしまった事件。知人でもなんでもないので、犯人に深く言及する気はないけれども、その後起こった「母親たちによる減刑嘆願署名」には腰を抜かした。

「お母さんがどれだけ大変だったかわかる、だから執行猶予にしてあげて」って、すみません意味がわかりません。犯人の「お母さん」の心を思いやれる方たちが、殺された子供の心、恐怖、痛みを一切思いやれていない。ひとつの命が親の手でなくなったことに心を痛めない方々が親の減刑を嘆願する、それを美談だと自分たちで考えているのがうすら寒かったです。

 

「翼の翼」や「二月の勝者」は、親向けの物語。

肝心の子供は置いてきぼり。

実際の受験の現場では、親同士が競い合っているのに、いざ子供が親の被害者になると「親の気持ちがわかる」と言い合うのは、あれですかね、共犯者意識なんですかね。

「翼の翼」~子供を潰しておいてカタルシスに浸る大人たち~

読みました、話題の「翼の翼」。

非常にリアルでしたね。

でも、私はこれに「感動」したくはない。

ネタバレしない程度にご紹介しますと、「わが子が頭がいいと思い込んだ親が子供を潰しかける話」ですね。

いや、潰してますね。

人間として一度潰してますけど、死なせるまでには至らなかった、という程度ですね。

毎年こういう親には会いますし、そのたびに忸怩たる思いになります。

中受が「自分のゲーム」になってしまい、泥沼にはまる父母。

自分は御三家の問題ひとつ解けないのにね。

 

この本は、話題の「二月の勝者」より、よほど狂気がリアルでヤバいくらいで、そこはすごいなあと感心しましたが、ひとつ疑問が残ります。

ゆるくネタバレしますので、間を空けますね。

ゆるくともネタバレ嫌!な方はブラウザバック推奨です。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、私がこの本に感じた違和感。

それは、結局「母の愛の肯定」で終わっているところです。

子供が完全につぶれてしまっているのに、「それに気づけた母GOOD!!」で終わってしまっています。

あのさあ。

最初は母親が潰したんだろ。

父親がさらに潰したから守りに入ってるけど、最初は自分だろ。

親が、親の見栄で受験させて子供潰しかけたなら、まずは子供本人に謝れよ。

子供は、親の見栄で潰されかけたとわかっていても、最後まで親をかばうんだよ。

DV被害の子供が親かばうのと同じなんだよ。

教育虐待は、DVなんだよ。

過去記事でも書きましたが、この手の小説やドラマや漫画って、「親も反省している」で手打ちにしすぎてません?

 

mikoto2020.hatenablog.com

親も人間です、未熟です、成長しました。

うん、それはいいと思うよ、成長したんだね。

でもさ。

未熟なときに傷つけた相手には謝りなよ。

これが、親→子供ではなく、いじめっ子→いじめられっ子、なら、謝るシーンって出てきません?普通。

いじめっ子が「内心で」反省して、当時いじめられてた子は許せますかね?

直接土下座して謝られないと許せないんじゃないですか?

 

私が、何度か書きましたけど、もう中受指導はやめようと思っているのはこれこそが理由なんです。

 

本人が〇〇校切望、なら話は別ですが(これは少数派)ほとんどは、親がこの小説の翼の母みたいに夢見ちゃってゴリゴリ勉強させて、小4~5くらいで「あれ?ウチの子、そこまでできなくない?」ってうっすら気づいても諦めきれなくて、子供が奇声発したり髪の毛抜いたりしても許さなくて、そういう親が諦める「ゲームオーバー」までの時間切れを待つゲームになってるんですよ。

周りはみんなわかってます。

親だけが、諦めきれない。

子供自身だってわかってます。

親が諦めるためだけに2月1日まで頑張らせるって、それでいいんですかね。

 

まあ、この手の小説を買うのは「親」ですからね。

親も頑張ってる、親もつらい、そうしたほうが絶対売れるでしょうね。

「二月の勝者」もそうですわ。

だって、こういう小説や漫画買うのは子供本人じゃなくて親だもんね。

 

もう、ほんとこういうの嫌。

私たち講師は、親の見栄のためにどれだけ子供が潰されているか目の当たりにしてる。

でも、このジャンルでは「親の立場」ばかり書いてるんだよねどの作品も。

こういう親がいかに愚かかを描き切った名作は「下流の宴」だと思います。

 

 

 

話を「翼の翼」に戻しますと、小説は良いところで終わってましたが、後日談としては翼がいずれ引きこもりになったり両親に暴力ふるうようになったりする未来が想像できてしまいますね。

思春期の子供を潰しておいて、「私たちも反省したし」「私たちも考え直したし」で済むと思ったら大間違いだと思います。それは、いじめっ子の論理です。

来期から中受指導を辞めようと思う(3)

辞めようと思う、というか、もう辞めることを決めたんですが(笑)、一応過去記事っぽいのがあるのでタイトルをそろえてみました。

 

年々、「勉強に向いてない子」が中受させられるケースが増えているように感じます。

 

よく、やる気がどうのこうの言うじゃないですか。

その「やる気」を与えるのが教師の仕事、みたいなのに疲れ始めているわけです。

たしかに、他人の働きかけで「やる気」が出る場合はあります。

それは、

・スランプで自信をなくしている

・これまで勉強の面白さに気づけなかった

場合です。

こういうケースは、私は得意です。

初回の授業で「やる気」を取り戻させることができます。

 

でも、子供の中には「勉強が苦痛にしかならない」子が一定数います。

・生まれつき

・親の要求が高すぎる

のどちらかですね、経験上。

というか、この二つの原因が合わさっていることが多いですね。

本人は勉強が苦手で小学校のテストすら60点台なのに、難関校目指す親が最近増えている気がしています。

 

高校野球なら、そうですね、地区予選ベスト8くらいが「甲子園目指そうかな」と思えるんじゃないですかね。もちろん毎回初戦敗退高でも、気分を上げるために「夢は甲子園優勝!」と言うのは自由です。それが、気分を上げるためではなく本気で初戦敗退校に甲子園優勝を目指せ!と言ってしまうのが、一部の中学受験親の実態です。

 

私は、生徒の能力の高低はまったく気にしない。

そりゃ、好奇心が強くて地頭が良い子は教えるのにストレスがないどころか教えてて楽しいので無料でもいいなと思うくらいだけど(笑)、生徒自身が「今をなんとかしたい」「できるようになりたい」と思っていれば、偏差値がどうだろうと教えることは楽しい。

でも。

「親が、子供の能力とかけ離れた目標をかかげている生徒」に教えるのはしんどい。

生徒本人の能力がどうであろうと、その子にあったタスクを与えれば、その子は勉強が楽しく感じるし、成長します。それが学びだと思う。でも、親がとんでもない目標をかかげていると、こちらもやりづらいし、何より子供が勉強を嫌いになってしまうんです。親のせいで勉強が嫌いになっている子は、個人コーチだけではどうにもしがたい。

中受指導辞めると決意したのは、それが理由です。

私は、生徒本人と向き合いたい。

中学受験は、生徒本人と向き合えないことが多いわけです。

親の要求が、子供の能力から乖離しているからです。

 

ほとんどの中受生は、親から「やらされてるだけ」で、当事者意識ゼロです。

徒労感、半端ないです。

私は常々、教師と医者って似てるなと感じてるんですが。

多くの中受生(のうち、個人コーチまで必要とするケース)って、「患者本人は自分がどういう状態か知らないし、治そうという気もないんだけど、親だけがやっきになってる」パターンです。

 

「嫌々やらされてる子」って、態度が目を疑うレベルです。

何を聞いても返事すらしない、腕組み、頬杖、etc。

これがピアノやバレエやスポ小なら、嫌々練習してる子に(まあ一応レッスンはするでしょうけど)励ましてほめあげてやる気を出させる必要なんかないですよね。むしろ、おととい出直してこい、じゃないですかね。

中学受験で偏差値10~20上の学校を夢見ている親の多くが、子供が講師にタメ口きこうが、ダラダラ授業受けようが、寝ようが、まったく気にしていません。「やる気を出させるのは講師の仕事」だと思っているのでしょうね。それ以前の話なんですけどね。

 

幸い、来期も口コミや継続指導ですでに埋まりつつあるので、中受指導をこれ以上受けなくて済みそうです。

今日は愚痴ばかりになりました、お見苦しくてすみません。

「ドラゴン桜」と「二月の勝者」の違い

この両者は、題材がともに受験ということもあって、よく比較されているように思う。

 

最近、この2作品には根本的な違いがあると感じた。

それは「子供本人の物語かどうか」という点である。

 

ドラゴン桜」は、終始、桜木先生が「人生を変えろ」「お前の人生このままでいいのか」と問いかけている。桜木が「あくまで東大」にこだわるのは、学歴偏重からではない。なにしろ、桜木自身が東大を出ていない。桜木が矢島や水野に「東大を目指せ」と連呼するのは、矢島や水野がこれまで人生と向き合わず、自分の努力で人生を変えようと思わず、環境に流されていたからだ。矢島は資産家の親に、水野は水商売の母に、という両極端な違いはあれど、二人とも親に潰されかけていた。学び、チカラをつけ、そういう「環境」を跳ね返せ!と桜木は語っている。

 

一方、「二月の勝者」は、優秀層の生徒に対しては、似たような流れである。順を毒親(父)から引き離し、自分の道を歩ませようとしている。また、潜在力の高かったまるみや加藤匠、三浦に関しては、親の過干渉を排除し子供を自立させようとしている。でも、この作品では、ドラゴン桜の矢島や水野のような劣等生は基本的に放置だ。非優秀層にこそ「目覚めよ」という啓示が必要に思うのだが。

 

「二月の勝者」では、子供自身に志望がある場合は親と闘ってでも子供の満足を優先しているが、いわゆる「見込みのない生徒」に関しては、「親の満足」が優先されているのを強く感じる。

まさに、中学受験の闇である。

「駒」の子供がどうなろうと、親を満足させれば金をいくらでも引き出せるのが中受業界だからだ。(高校受験・大学受験ともなると、親も子供の能力が薄々わかっているので無限に金を引き出すことは無理)

 

「勉強することで自分を変えろ」と生徒本人に説くのがドラゴン桜なのに対して、「有名中に入れば良い人生が送れる」と親に説くのが二月の勝者。題材は似ていても、テーマがまるで真逆だと感じる今日この頃である。どちらが良いという話ではなく、「二月の勝者」は、中受親向けの漫画なんだなと感じる。だからこそ、作者も子供本人には読んでほしくないといっているのであろう。