とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「勉強法ジプシー」になってはいけない

 

1)「勉強法ジプシー」とは

私がさっき思いついた造語です(笑)。

簡単に言うと

「どこかにまだ見ぬ素敵な『勉強法』があって、自分は(わが子は)それを見つけていないから伸びないのだ!」と考え、ひたすら「勉強法の研究」に夢中になる状態

のことです。

 

2)なぜ「勉強法ジプシー」になってはいけないか

 

「勉強法」をあれこれ考えている間って楽しいんですよね。

だって

その間は勉強しなくていい

・正しい勉強法さえ見つければ成績が上がるはず!という夢が見られる

・自分の(わが子の)成績が悪いのは勉強法のせいだ、と逃避できる

のですから。

 

ダイエットで考えるとわかりやすいですね。

運動を一ミリもしないのに。

食事を改善もしないのに。

ただひたすら「痩せる方法」を探し続けたり、次から次にサプリを試したり。

これが「ジプシー状態」です。

結果は火を見るよりも明らかですね。

成績は伸びないし、体重は減らない。

 

ダイエットと同様に、「絶対ダメ!な勉強法」は存在します。

難易度高すぎる問題ばかり取り組むとか(その逆も)。

漢字や英単語を覚えるのにただひたすら何回も書く、とか。

エトセトラ。

 

また、自分に合うスタイルが見つかると気分も安定するし伸びやすくなるのも事実。

 

でも、だからと言って「肝心の勉強をせずに」勉強法ばかり探し続けるのは本末転倒。

 

自分に合った勉強スタイルというのは、ある日突然魔法のように現れるわけではなく、「勉強しながら」カスタマイズしていくことで見つかるものなのです。

そして、勉強法を変えたからと言ってもすぐ効果が出るわけではありません。

講師や友人が教えてくれたTipsは素直に試してみると良いと思いますが、その際はせめて1~2週間は続けてみてください。

時々いるんです、毎回「コツを教えてください」という生徒。

え、先週教えたよね(苦笑)。

ジプシー状態の子や親というのは、言われたことを試してみることもなく、次から次に「コツ」を聞きたがります。ダイエットで次から次にサプリを買うのと一緒ですね。

コツばかり聞きたがる子というのは伸びません。

なぜなら、自分の勉強量が圧倒的に足りていないことから目を背けているから。

mikoto2020.hatenablog.com

 

 

勉強スタイルを模索すること自体は、もちろん良いことですが

「ジプシー」となって本末転倒にならないためには。

「素敵な勉強法が見つかりさえすれば成績がバクノビする」という幻想を抱かない。

これが大事。

 

ダイエットや健康法と一緒です。

奇天烈な「○○さえやれば」なんていうのは全部ウソ。

結局、地道に腹八分を守って適度に運動するのが一番。

どこかに「ハクバノ王子サマ」=「まだ見ぬ理想の勉強法」などありません。

 

もちろん、「効率の悪い勉強スタイル」はあります。

ですから、もし私の生徒が効率の悪い勉強スタイル(基礎をおろそかにして今は無理な難題にばかり取り組んだり、英単語を語源も考えずに丸暗記しようとしていたり)をしていたら、改めるようにアドバイスはします。

でも、実は「伸び悩んでいる子」のほとんどが、圧倒的に勉強量が足りない「だけ」なのです。

(中学受験に関しては、親が「質より量」になってしまって超非効率かつ子供の学習意欲を削ぐ勉強法をさせているケースが多々ありますから、その際は私も介入しますが。さらに言うと、中学受験の場合は、子供の成績が「伸びない」という評価自体が間違っているケースの方が多い。子供が精いっぱいやってそこなのに、親がそれ以上を望んでいるから「足りない」という評価になっているだけ)

中高生、つまり親の手を離れて自分で勉強するようになった子の場合、勉強法うんぬんよりも、圧倒的に勉強量の問題です。

 

3)それでも「バクノビ」したいなら

マンツーマン講師をつける。

これ一択だと思います(営業ではありません(笑))。

なぜなら、マンツーマン講師であれば

「今の勉強の仕方のどこが悪いのか」が指摘できるからです。

また、生徒に合った勉強法を(ある程度は)推測し提示できるからです。

スポーツでもダイエットでも、個人トレーナーをつけるとてきめんですよね。

それと一緒です。

 

ただ、ここにも落とし穴があります。

個人コーチを「つけさえすれば」成績が上がるわけではありません。

ライザップでトレーナーについてもらっても、トレーナーがいないときに暴飲暴食したら痩せるわけがないのと同じです。

言われたこと(課題)は守りましょう。

 

算数と数学はプロに「丸投げ」すべき

数学の不得意な親御さんはもちろん、得意な親御さんも「プロ講師の境地になれない限り」、こと算数/数学については「親塾」はやめて欲しい。

 

1)算数/数学が不得意な親が「親塾」をすると

 

マルかバツかしか見ない親は多いですが、こと算数/数学にいたってはこれが顕著。

 

考え方は合っていたのに最後の最後で計算ミスをした。

これを正しく「評価」できるか。

基本的には、考え方が合っていればとりあえずそれで良しとして欲しいですが、一方で「看過できない計算ミス」というのもあります。「ありえない答え」の場合です。

算数/数学の指導というのは、ここが大事です。

その「微妙な案配」は、算数/数学が苦手な親御さんにはわかりません。

いきおい、「計算ミス断固許すまじ」「計算ミスだからいいよいいよ」の両極端になりがちですね、経験上。(「ありえない計算ミス」の場合は、根本からきちっと鍛錬する必要があります)

 

また、算数/数学は正解に至るまでに様々な「道」がありますが、失礼ながら算数/数学が苦手な親御さんは「子供の書いた道」が「自分の知ってる道」と違う、あるいは解説と違うと理解できない。

 

お子さんが基礎の基礎もわかっていないのだったら「この通りにやれ」が有効な場合もありますが、お子さん自身の中に「自分に合った解法」がある場合、混乱をきたすおそれが大きいです。

 

過去、「わが子の解き方がおかしい」と言ってきたケースの多くで、お子さんのほうがより俯瞰的な解き方ができていて、それを親が「理解できていなかっただけ」でした。

 

正直言っていいですか?

設問に対して少なくとも解法を3つ以上提示できないのであれば、算数/数学の文章題は教えないほうがいいです。

 

2)算数/数学が得意な親が「親塾」をすると

 

これは、ケースバイケースですね。

一流のプロ講師並みに

・「待つ」ことができ

・俯瞰した目を持って

いれば、稀にではありますが親塾がプラスになることもあります。

(過去、一例だけ経験しました)

 

ですが、多くの場合は

・「なんでこれがわからないの?」とイライラしてしまう

・一足飛び=子供の理解度を超えて「最適な解き方」を教え込んでしまう

という弊害が大きいです。

 

小6・中3・高3といった「仕上げ」の時期では「あり」かもしれません。

ですが、子供自身が「理解へのステップ」で試行錯誤しているときにこれをやられるとキツイです。

 

たとえば、中学受験の速さの問題は、最終的には「比」でガンガン解いたほうが速いです。でも、理解の途中にいる子供にとっては「具体」じゃないとわからない。太郎君と次郎君の分速を出して、それで初めて理解できるわけです。算数が得意な親御さんは、そこをすっ飛ばして「最適解」に行きがち。

 

場合の数なんかもそうですね。

難関国立中などでは「樹形図」を大事にしていて、安易にCだのPだの教えません。なぜなら、CだのPだのだけでは解けない問題が、東大はじめ超難関校では出るからです。「理解のステップ」を大事にしているからこそ、国立中では無意味な先取りはさせないということです。

怖い話ですが、多くの中受では「3つ選ぶ」までは出ますが「4つ選ぶ」は出ないので、「2つなら2で割る」「3つなら6で割る」を機械的にできても、「4つ選ぶ」がまったくできない塾生が多いですね。つまり、なぜ2で割るか、6で割るかわかっていないわけです。いったい、有名塾ではどういう教え方してるんだろう…。

 

算数/数学得意な親御さんは、

・イライラしない

・子供の「理解の段階」を理解する(そして待てる)

・数2/B(できれば数3)まで理解し、問題を多角的に説明できる

自信があるときのみ、親塾をしてください。

 

3)じゃあ、親は何をすればいいのか

・生活の中で「数の感覚」を教えて欲しい

おつかいに行かせる。おやつやおかずを「分けさせる」。料理を手伝わせる。

こういう「数の感覚」こそ、ご家庭で養うべき素養です。

「偶数か奇数か」を尋ねると「2で割る筆算」を始める子がいます(汗

これが、偏差値が50前後の子でもそうだというのが恐ろしいです。

偶数か奇数かが「ちょっと見」でわからないというのは、「算数」と「生活」が乖離していて「勉強は机に向かってするもの」だという刷り込みから来ている気がします。

「2で割れるか」「3で割れるか」というのは、たしかに「ルール」で教えることもできますが、それ以前に「生活感覚」として身についていて欲しいです。

「数の感覚」「実感」がない子には、5%の食塩水と10%の食塩水を混ぜたら15%という子が多いです。偏差値が50前後あっても、です。

「実感」を育てるのは、家庭ならではです(個人コーチにもできますが、それにはとても時間がかかります。できるなら家で培ってほしい)

 

・お小遣い制にして、「こづかい帳」をつけさせる

以前も書きましたが、最近は「おこづかい制」の子がほとんどいないようですね。

おこづかいがいくら、○○を買ったら残りはいくら。

ジャンプを月4回買ったらお小遣いで足りるのかどうか。

こういう感覚がない(のに塾のテストだけは解ける)のは、正直怖いです。

・計算練習のマネージメント

計算が速い→算数/数学ができる

とは言えませんが

計算が遅い/ミスが多すぎ→算数/数学が苦手になりがち

は多くの場合当てはまります。

つまり、十分条件ではないが必要条件ということですね。

 

計算ミスにも「まあしょうがないミス」と「ありえないミス」があります。

「ありえないミス」をする子というのは、(ドラゴン桜2の受け売りですが)「数の暗黙知」が育ってないです。

計算練習は、授業でコツを教えることはできますが塾も家庭教師も毎日見張ってやらせることはできません。「毎日の鍛錬」こそ親御さんの出番です。

 

できれば、計算ミスの「ヤバさの度合い」が見極められるといいです。

算数/数学苦手な親御さんには負荷が高いかもしれませんが。

たとえば答えが4ケタの計算で、10の位や100の位が間違っていても大問題ではありませんが、1000の位が間違っているのは看過できない、という具合に。

 

・一緒にパズルをする

たびたびご紹介していますが、宮本算数パズルはすごいです。

「これは何の倍数か」を考えるようになり、さらに「仮説と検証」の鍛錬になります。それも、楽しみながら。

こういうパズルを一緒にやることで、子供は「数の暗黙知」が鍛えられますし、親御さんも「自分が実は算数/数学をわかっていないという事実」がわかるかもしれません。

 

・文章題では「検算」をさせる

子供の出した答えが違う場合、多くの親御さんは最初からやり直させます。

その前に、「その答えが当てはまるかやってごらん」と示唆してほしいです。

子供は「あれ?おかしい」となって、自分でやり直し始めます。

 

・どうやって解いたか説明させる

「なるほど。じゃあ、どうしてそう思ったかパパ/ママに教えてくれる?」という問いかけ。「なるほど」と言った瞬間に子供は自分が不正解なことを知るでしょうが(笑)、それでも頭ごなしに「最初からやり直せ」というよりも、自分の考えをトレースして間違いに気づくことが後々プラスに働きます。

 

4)それでも「親塾」がしたいなら

一度、ご自分で解いてみてください。

塾の模試、志望校の過去問。

制限時間ではご自身が満点を取れないならば、制限時間で満点が取れるまで勉強してください。

というか、はっきり申し上げます。

制限時間の半分で全問正解できないのであれば「教える」のは無理です。

(この辺が、学生バイト講師とプロ講師の違いでもあります)

「自分が解ける」のと、「生徒(わが子)を解けるようにできる」のは、求められるスキルに雲泥の差があります。

「解法」を教えても、生徒は解けるようにはなりません。

子供のスケジュールを「パンパン」にしていませんか?

わが子のスケジュールに30分「すきま」があると気になる―――そんな親御さんは要注意です。

というか、危険水域に来ていると思います。

 

このブログは「本音ブログ」ですが、矜持として現在~数年前に担当している生徒やご家庭のことは書かないと決めています。ですからこれから書くことも相当昔の話ですが、似たような風潮は年々強くなっているのを感じます。

 

 

1)家庭教師のある日に、直前までイベントを入れる親

どうも、いつもと生徒の様子がおかしい。

普段は集中している子が、ボーっとしている。

普段から心ここにあらずタイプなら、授業をできる状況ではなくなっている。

こういうとき、ほぼ例外なく「実はプール(その他イベント)に行っていて、さっき帰ってきたところなんです」という答えがあり、ずっこける(苦笑)。

猛者になると、旅行から帰ってきてすぐ家庭教師、という例もあった。

 

子供はイベントで全力を使い果たすもの。

余力を残すという発想ができるのは大人だから。

全力を使い果たしてきた子供をシャキッとさせて授業に集中させろと言われても無理ですし、ヘロヘロの子供をコーチに任せることがいかにおかしいか理解してほしい。

 

2)塾のある平日に家庭教師を入れる

これは、受験学年かどうか、あるいは本人がどこまで積極的かによって評価はわかれる。受験学年で、かつ本人も「塾で生じた疑問をその日のうちに解決したい!」と積極的ならば、同日に家庭教師を入れるのはプラスに働くだろう。

 

しかし、非受験学年、あるいは本人が受験にそれほど積極的でない場合、平日に塾のあとに家庭教師を入れるのはやめたほうがいい。

 

不思議でならないのは、多くの親が「学校」をカウント外にしていることだ。

だから、塾の日に家庭教師はちょっときついかもしれないけど大丈夫、と判断してしまう。でもそれは「ダブルヘッダー」ではなく「トリプルヘッダー」だ。

子供たちは、学校ですでに6時間(拘束時間で言えば8時間)勉強してきている。

その後に塾、さらに家庭教師。

ブラック企業も真っ青ですね。

 

3)結果:子供はヘロヘロ。だが…

本人に覚悟と「何が何でも〇〇校!」という強い志望があるケース以外で、イベントと家庭教師、あるいは塾と家庭教師は無謀。

そういうとき、なんとか2時間なんとか乗り切ることしか、子供の頭には浮かばない。

こんなときは、思い切って授業を休みにするか、あるいは半分にして仮眠をとってからのほうがよほどパフォーマンスはよくなる。

講師としては、どんなに工夫しようが目の前の子供の頭を授業が素通りしているのがわかるので困ってしまう。

ヘロヘロの子供に授業をしても効果がないのだが、子供のスケジュールをパンパンにしてしまう親御さんというのは、そんな状態でも講師ならしっかり授業をできて当たり前だと勘違いしているケースが多い。

さすがに、それは私でも無理ですね。

若い頃は「私がなんとかしなくちゃ」と責任を感じていましたが、最近は「体調を整えておかなかった方が悪い」と考えるようにしています。

 

4)パツパツに「予定」を入れてしまうタイプ

子供のスケジュールをパツパツにしてしまう親御さんは、親御さん自身も「じっとしていられない」タイプが多いように感じる。

「何もしないでいると損した気分になる」人は要注意。

おそらく、子供さんはもちろん親御さん本人も、タスクを今の3割くらい減らすべき。

それが適正な量。

 

5)「相手が小学生」ということを忘れている

高校生くらいになって身体が出来上がってくると、多少の無理はききます。

(それでも「多少」ですが)

大人は、さらに無理がきくことでしょう。

でも、そのノリで子供のスケジュールをたててはダメ。

子供は大人である自分の3割できれば上出来、と考え、大人の3割程度の密度でスケジュールは立てるべきでしょう。

なぜかというと、大人は身体が出来上がっていて無理がきくということもありますが、もう一つ、大人は「手抜き」ができるからです。

身体と脳を守るために、上手にエコモードで動けます。

子供にはそれができません。

たまに、常にエコモードの子がいますが、そういう子は朝から晩までMaxを求められ続けた結果、本能的に「手抜き」を覚えてしまったのです。不憫ですね。

 

6)「何もしない時間」=「無駄」だと考えている

子供が、あるいはパートナー、はたまた他人がクルクルと働き続けていると満足するタイプの方もいますね。逆に、他者が「ほっとひといき」入れたりしているとイライラしてしまうタイプ。

ここまでくると、マジでブラック企業の経営者と心理は同じですね。

 

機械ですら「休ませる時間」は必要です。

そうでないとオーバーヒートしたり寿命が縮まったりします。

ましてや、我々は生きた人間です。

そして、脳は臓器なので、詰め込みすぎると知識の「下痢」を起こします。

適度に休む・遊ぶことで、かえって定着がよくなるわけです。

 

7)「スケジュールが真っ黒」のデメリット

疲れて、パフォーマンスが下がります。

学校にしろ塾にしろ、はたまた家庭教師の授業にしろ、「時間つぶしのアリバイ」になってしまいます。そういうときは、何も学んでいない。ただ形だけこなしただけ。

満足を得られるのは、そういったスケジュールを与えた親御さんの心だけです。

 

さらに怖いことに、

子供を「常時エコモード」にさせてしまいます。

 

常に行き過ぎたノルマを与えられている子や、ノルマを終えたらすぐ「新しい課題」を与えられる子は、わざとノロノロやるようになります。

どうせ時間が来るまで休ませてくれないんだから、だったら手を抜いて量を減らそう、と考えるわけです。

なにやら、日本のサラリーマンの「ダラ残」に似てますね(苦笑

もし専業主婦の方なら、夕飯が終わってほっと一息と思ったとたんに「暇なら掃除したら?」「次は〇〇やって」と言われた場合を想像してみましょう。怒り心頭なんてものじゃないんじゃないでしょうか(笑)。そういう毎日が続くと、「わざと家事が終わらないようにゆっくり」しませんか?子供も同じことです。

 

ダラ残で常時エコモードになった子供というのは、本当にスパートをかけなければいけない時期が来てもスパートがかかりません。これが一番怖い。

また、こういう子は計算がなかなか速くなりません。文章を読むのも遅いです。なぜなら、速く終わると親がすぐ次のノルマを与えてくるからです。

わが子を「時間切れを狙う子」にしないためにも、過密スケジュールや過剰なノルマは一度見直してみませんか。

 

8)蛇足:休み時間のない塾って

こうして考えてみると、休み時間のない某大手塾は、「趣味は勉強!!」のタイプ以外には生理学的に無茶だなと感じますね。

勉強が好きでしょうがないタイプは、「数学での脳の疲れを国語でリフレッシュ」みたいなことを平気でできますから、まあそういう子にはいいんでしょうが。

雑記:「早けりゃいいでしょ」と考える迷惑な人たち

このところ、立て続けに「約束より結構早く訪問され」て困った。

そして、はっきり言えば不快になった。

生命保険の担当。

生徒さんor生徒の親御さん。

その他エトセトラ。

 

なんで困るかと言うと、準備の関係である。

ぶっちゃけ、今の私は相当忙しい。

授業と授業の間は30分も空いていないことが多い。

(準備のために1時間は空けるようにしているが、結局授業延長や面談でその時間はガンガン削られるのだ)

職種によってはタスクとタスクの間に5分しか間がない仕事もあるだろうから、そういう職種の方から見ると甘えと言われてしまいそうだが、私の仕事の場合、理想を言えば1時間は間が欲しい。

次の生徒さんの準備をきちんとしたいし、また、それぞれの授業をMax集中してやっているので授業がひとつ終わると結構文字通り精魂尽き果てている。次の生徒さんのために、その疲弊から回復する時間が私には必要なのである。

 

であるからして、自宅の打ち合わせや自宅での授業の予定時刻は(私の場合)「そこしか無理」な時刻なわけである。それを、15~30分早く来る方がちらほらいる。

自宅を兼ねた仕事場だから、普通の仕事場に来られるより準備は大変。

また、正直言ってその15分~30分は、私にとって貴重な休憩時間。

 

「約束より早すぎるのも『時間にルーズ』なのだ」

と私は思う。

なぜなら、相手の時間を奪うことだから。

 

「早すぎる人」になぜここまで不快感をおぼえるのか、今朝わかった。

それは、その人たちが「早く着いた分、早く用事を済ませたい」という「自分の時間優先」だからだな。

 

私は自分が訪問する場合は早めに近くまで着くようにして、近所で時間をつぶしてからちょうど良さそうな時刻にインターフォンを押すようにしているが、「早すぎる人」たちはその調整時間を「無駄」と考えるんだろう。

だからこそ、彼らは多くの場合電話連絡もなく突然15~30分も早くインターフォンを押す。せめてマンションのオートロックの集合インターフォンから連絡してくれれば「ロビーで待っててください」とでも言えるのだが、なぜか彼らは宅配便などに紛れてオートロックを突破し、突然玄関に来る。

 

これを非常識だと思うのは私の心が狭いのだろうか。

 

電話連絡をしてくる場合でも、「早めに最寄り駅に着いたので、もしよかったら今から伺ってもよいか」という問い合わせではなく「今から行きます」の一方的な通告である。そもそも、「よかったら~」などと気遣いの出来る人は早めに突撃などしない。

そう思うと、実に自分勝手な人たちだと思う。

こういう人たちは「早すぎると困る」とはっきり伝えてもまた繰り返すんだが、いったいどう言ったら伝わるんだろうか?

 

蛇足ながら、かなり以前になるが毎度毎度「早く来てくれ攻撃」を繰り出す親御さんがいた。「今日は子供が早く帰ってきたので30分早く来られないか?」と連絡が来るわけである。当然無理なので断るのだが、何度断っても理解してもらえない。

職種によって、あるいは間柄によってどれくらい時間が前後して良いかは変わるだろう。代表的な例としては、宅配は時間が読めなくて当たり前だし、玄関先で荷物を受け取るだけだから、日にちさえ合っていれば時間がずれてもまったく気にならない。

相手が個人だと思うと途端に時間を思い通りに変更しようとする人は、予備校や塾にも自分に合わせて時間を変えろというのかな(笑)。まあ、個人だと暇だろうから時間に融通が利くと勘違いされているんだろうな。実態は全く逆なわけですが。

なぜ人目が気になってしまうのか

小中高生を教えていると、

自意識過剰なため学力が伸びにくいケース

に、よく出会います。

 

1)なぜ自意識過剰がなぜ学力の伸びの障害になるのか

それは

・「間違え」を過度に恐れる

・チャレンジングな志望を避ける

・「落ちて恥をかく」ことを恐れ自分を追い詰める

・人目が気になりすぎて勉強に集中できない

ことに、簡単に繋がるからです。

 

間違えることを過度に恐れていては「解ける問題ばかり解く」ことになったり、「質問ができない」ことになったりします。

チャレンジングな志望を避けることで、資質が高くても伸ばせないこともあります。

逆に、落ちたら恥をかくという恐れが学習を阻害することも多いのです。

人が自分をどう思っているか気になりすぎて勉強が手につかない生徒もいました。

 

具体的に言いますと

・答えに自信がないと小声になる

これは「バツ」に対する過剰の怯えであり、これに関しては講師が「バツは全然まずいことじゃない」というと、気にしなくなるケースが多いです。

 

一方、自分がどう見られるかの自意識過剰は、結構根が深いですね。

具体的な行動としては

・オンライン授業だと顔を隠す、手元を見せない

・対面授業だと、下を向いて黙ったまま

という行為になります。

オンライン授業で「なんで顔を隠すの?」と聞いたら「髪の毛を切りすぎて恥ずかしい」とか「にきびが出来ていて」という答えが返ってくるのですが、彼らは盛大な勘違いをしている。私たち講師は、生徒の容姿の良しあしなどまったく気にしない。「表情」は気にしますが。

2)実は他人は「私/俺」のことなど目に入っていない、のだが

そういう子に、私は尋ねます。

「あなたは、今日学校から帰ってきて、学校の誰かのことを思い出したか?」と。

ほぼ全員が首を横に振ります。

そう「人目が気になっている子」ほど、「他人がどうしているか」には目が向いていないのです(意識が自分にばかり向いているのだから当たり前ですね)。

ならば、同じように「他人」も「私」のことなど気にしていないはずです。

そう、

若いうちは誰もが「自分を映す鏡『しか』」見ていない

のです。

俗に言う、「自分の顔が気になるのは自分だけ」というやつです。

そういうと、いったんは子供たちも「あ、そうか」と納得します。

でも、それで自意識過剰気味の子が「人目を気にしなくなる」かというと、そんなことはありません。

なぜ彼らは、「自分が他人のことを覚えていないように、他人も自分のことなど覚えていない」と理屈ではわかっても、それでも人目を気にし続けるのでしょうか。

 

3)「他人が自分のことを目にも入れていない」ことが耐えられないから

自分が他人に関心がないのと同じくらい、他人も自分には関心がない。

それは理屈ではわかる。

でも、そのこと(人が私を見ていないという事実)に耐えられない人が多い、ということなのだと思います。

 

アドラー流に言うと、彼らは

「他人に私を気にしてほしい」

と思っている。

だから、どんなに大人から「人はそれほどあなたを見ていないから安心しろ」と言われても、納得できないというか「人が自分を見ていない」ことを認めたくない。

「人は私など見ていない」と認めたくないから

「人は私を気にしている」ということにする。

その結果、人の目が気になってしかたなくなる。

「人が自分を見ていて欲しい」と思うからこそ、「人目を気にしない」ということができない地獄に陥る。「誰も俺/私をとりたてて注目していない」と思えば楽になるのですが、逆に若い人にとってはそれ(他人が自分を見ていないこと)は耐え難いことなのでしょう。

「人からどう見られるか」ではなく「自分が世界をどう見るか」に軸足を置けると人生はとてつもなく楽になり、ワクワクの連続になるのですが。。。

 

4)「他人は3秒後には別のことを考えている」のに

 

学校や就職先を「見栄」で選ぶ人は実に多いです。

就職人気ランキングに「誰でも知ってる会社」が多いのも、それが理由です。

実は「B to B」つまり一般消費者は知らないけどスゴイ会社、は山ほどあるのですが(そして実は給料や待遇も一般的な認知度が高い会社よりも良かったりするのですが)、多くの学生は「B to C」すなわち「誰でも知ってる会社」をまずは目指します。

なぜなのか。

それは

「あそこに入るなんてすげえ!」って言ってほしいから

なんですね。

 

私は以前いわゆる「そういう会社」でリクルーターをしていたことがあります。

そのとき、応募者に言っていたこと。

「就職して『すげえ』と言ってもらえるのは一瞬。結婚式と一緒だよ」

たとえば「すごい人」と結婚したとき、結婚式に参列した人はその場では称賛するでしょう。でも、参列者は帰途につくころには、もうそのことなど忘れています。

「人から『すごい』と言ってもらえる」ことを自分の基盤に置くと地獄です。

なぜなら、人は「すごい」と「言い続け」てはくれないからです。

すごい、と言ってくれるのは「入ったときだけ」です。

 

逆に言うと「落ちて恥ずかしい」なんていうのも妄想だとわかるはずです。

ぶっちゃけ、子供に実力と乖離した学校を目指させる親御さんは「落ちたらママ友に馬鹿にされる」と気にされている方も多いですが、気にする必要ゼロです。

マジでゼロです。

なぜならば、ほぼすべての受験生の親が気にしているのは自分の子供のことだけだからです。あなたの子供のことをどのママ友も気にしてはいません、安心してください。

たまに、マウント取ってくる迷惑な相手もいるでしょうが、それはそのお子さんが「行った先」ではいろいろ大変(まあぶっちゃけ言うと深海魚)だからこそだと思いますので、マウントしてくる馬鹿な相手など気にする必要はまったくありません。

そういう人、つまり自分より「格下」を見つけて攻撃せずにいられない人というのは、その人が今いるカテゴリの中で「下」だからなのです。むしろ、温かい目で見てあげてください(笑)。

 

余談ですが。

東大生と会うと「馬鹿にされる!(汗)」と恐縮される人が多いですが、マジでそんなことはありませんので安心してください。私を含め、東大生は「ずば抜けた天才」を間近に見ているため、むしろ「自分は落ちこぼれだ」と思っているくらいです。そして東大生はピュアな人間が多いので、むしろ「自分は勉強『しか』できない」と謙虚なタイプが多いですね、経験上。東大卒だけを錦の御旗にして、非東大卒を馬鹿にするやつがいたら、そいつは「東大で落ちこぼれて東大だけが『よすが』」の人間なので、生暖かく見守っていただけたらと思います(笑)。

5)「私」を注視する他人はたったの3種類

若いうちは、「みんなが自分を見ている」気がするものです。

でもそれは幻想です(笑

たしかに、あなたに注目している「他人」はゼロではありません。

・親や上司、あるいはチームの仲間など利害関係のある相手

・あなたを好きな人

・あなたを嫌いな人

この3者は、たしかにあなたの一挙手一投足に注視していることでしょう。

利害関係のある相手はあなたに注目しているでしょうが、人の評価は自分にはどうにもできません。なぜなら、それは「相手の気持ち」だからです。つまり、気にしても仕方がありません。

 

あなたを好きな人があなたに注視するのは当たり前です。基本的に「アバタもえくぼ」でプラスに評価してくれるのですから、過度に気にする必要はなし。

 

そして、「あなたを嫌いな人」。

これは、あなたがどういう行動をしようとあらさがしをするだけなので、気にするだけ損です。

 

これを言ったら身もふたもないですが。

「好きな理由」とか「嫌いな理由」とか、全部「後付け」なんですよ。

「好き」「嫌い」という感情が先に湧いて、その後で「理由を探す」のが人間です。

男女の恋愛、もっと言えば結婚離婚を考えたら自明じゃないですか(笑)。

付き合う前、結婚する前は「好きな理由」だった事柄が、嫌いになった後は「嫌いな理由」になるんです(笑)。

特に、別れる前というのはそれが顕著ですね。

「別れたい」が先にあって、その後で一生懸命「嫌いな理由」を探して自分を正当化する、それが人間。

 

つまり、「人があなたをどう思うか」なんて気にしてもしょうがないんです。

それは、相手が勝手に決めます。

こちらにはどうしようもない。

 

あ、ただ、「人から嫌がられる行動=他人に明らかに迷惑になる行動」をしてしまっているのが明白な場合は、それを改めるのはもちろん大事です。「人目を気にしない」=「傍若無人、ルール無視」ではありませんからね。

 

自意識過剰な若い人たちにぜひ気づいてほしいこと。

それは

「みんな」に好かれることなど不可能だし

その必要もない

ということ。

自意識過剰な人ほど、「自分を嫌いな人を振り向かせよう」と考える傾向があるように感じています。うん、そんなことは無理。だって、相手は「まず」あなたを嫌いなので。何がきっかけかは知らないけど、最初に「嫌い」がある。あなたを「嫌おう」として、悪い点を探そうとしている。そんなのにまともに向き合うだけ無駄。

理不尽だと思うかもしれないけど、あなたにだって「なんか嫌いな相手」は山ほどいるはず。あなたがその人たちを嫌いなように、あなたを嫌う人もいるというだけの話。

あなたは「他人」を自由に「嫌う」のに、あなたは「嫌われたくない」というのはちょっと勝手だよね(笑)。

人間だから、というか、生き物は「相性」ってのがある。

どっちが悪いわけじゃなく、好き嫌いの感情は湧いてしまう。

だから、嫌いな相手や自分を嫌ってる相手とは、とりあえず一定の距離をとるのが吉。

そのうち、何かのきっかけで気分が変わることもある、くらいに構えておいた方が楽に幸せに生きられると思います。

 

ただ、これらとは別に「自衛」をしなければいけないケースもあります。

あなたを「好き/嫌い」が高じすぎて、ストーカー行為に及んだり、逆に迫害行為(いじめという言葉は嫌いなので、迫害と言います)に及んだりするケースです。

これらの場合は、あなたがスルーする=気にしないだけではどうにもなりませんので、信頼できる第三者に一刻も早く相談しましょう。

 

6)まとめ:受験においては

他人は自分の(あるいは自分の子の)合不合しか気にしていません。

また、どこに受かろうと、人が褒めてくれるのは一瞬です。

あえて厳しい言い方をしますが、あなたがどこに受かろうと、他人はまるで気にしていないと言うことです(3秒くらいは話題にするかもしれませんが)。

そして、「人があなたをどう評価するか」はあなたにはどうしようもできません。

なので、気にする必要はゼロです。

「人からどう思われるか」を一切気にせず、志望校を選び、そしてそこに向けて「自分の満足のために」邁進しましょう。

「自己肯定感」という言葉は間違って使われている

「自己肯定感」の言葉を目にしない日はないと言っても過言ではない気がします。

でもこの言葉、中受界隈では明らかに間違って捉えられている気がしてなりません。

 

新規のご家庭からよく言われるのが

「ウチの子、自己肯定感が下がっているので褒めて伸ばしてほしい」

という言葉です。

うーん。

子供の自己肯定感を下げたのは誰なんですかね。

塾に入れてテスト結果に一喜一憂している親御さんだと思いますよ。

本気で子供の自己肯定感を下げたくないなら、いますぐ中受やめるのが一番。

なぜなら自己肯定感とは「他人と比べない」ことが不可欠ですから。

 

そもそも自己肯定感という言葉も若干うさんくさいと私は思っているのですが。

ぶっちゃけ、現代人って自分が好きすぎで(心の)鏡見てばっかなんじゃないかな。

 

自己肯定感を上げるというのは、それ自身が目的ではなく目的は「幸せを感じながら生きる」ということだと私は考えています。

 

私は現在ほぼノーストレスで毎日幸せを感じていますが

その源泉は「自分ではなく『外』を見ること」だと最近気づきました。

以前も書きましたが

・散歩しながら空や緑や社会のありようを「楽しむ」

・すごい人を素直にすごいと感じワクワクする

・何か(つまり自分以外のもの)に夢中になる

こういうとき、本当に幸せです。

毎日、いちいち「私はすごい」など自分に言い聞かせる必要などない。

 

話が逸れました。

良くも悪くも、毎週毎週数字でランキングがつく塾という環境に放り込んだうえ、親がそのランキングで一喜一憂していたら子供の自己肯定感が下がるのは当たり前。

以前、親御さんからショッキングな言葉を聞きました。

「(ウチの子)褒めるところがない」

本気でそんなことを思っているのか、中学受験はここまで親の心を狂わせるのかと驚きました。だって、その生徒さんは有名塾で中上位クラスなんですよ。私は再々偏差値は唯一のモノサシではないと書いておりますが、その親御さんのモノサシである偏差値でも50前後、つまり平均的な学力はあるわけです。

ほかにも、好奇心が強いなどの良い面もたくさんあったんですが、親御さんは「褒めるところがない」と断言。

うん、だったら親も子供から「採点」してもらったらいいんじゃないかな?決して満点ではないと思いますよ。

それどころか、心の中では「うちの親、褒めるところがない」と思われてるんじゃないかな。家族って最後の砦ですよね。家族がお互い採点しあって欠点が許せなくなったらもはや家族って何。

 

まあそんなわけで、親が「今のわが子」を受け入れられない限り、子供の自己肯定感なんて上がるわけがありません。

 

私の場合、子供の答案を見ればその子なりに精一杯がんばった足跡が見えますからそこを褒めることで劇的に伸びていくことが多いです。

「ウチの子は、ミコトと出会って人生変わった」という過分なお褒めの言葉は何度もいただいてきましたが、それは私がその子の「誰も褒めなかったところ」を褒めたからだと思います。

でもそのメソッドも最近「違うかもしれないな」とも思い始めています。

点数やランキングで親から自己肯定感をゼロどころかマイナスにされた子には、まず「良いところを褒める」のは実際効果があります。

自己暗示力もあいまって、ぐいぐい伸びる契機になることも多いです。

でもそれって、結局「人より〇〇が優れているから」自分には価値がある、という話になります。

 

勉強ができなくても〇〇ができれば、という「多様性」の考えは否定はしません。

でも、それって「〇〇のジャンルで他人より優れていること」が自己評価の源なわけで、モノサシが多様なことはもちろんモノサシが単一なことより良いのでしょうが、結局「人と比べている」点では変わりありません。

 

具体例で言いましょうか。

勉強はできないけど音楽が得意。絵を描くのが得意。容姿端麗。エトセトラ。

たしかに「勉強で人と比べられること」からは逃げられますが、今度はそのジャンルでまたランキング合戦になります。

 

「〇〇ができるから」自分には価値があるというような評価自体が、もっと言えば「自分を評価する」こと自体が、無間地獄への入り口な気がしてなりません。

 

本当の意味で「自分を評価」できればそれで幸せなんですが、自分の「価値」にばかり目を向けていると、それはカンタンに「承認欲求」に繋がっていく。

(私は、SNSが一般人をこの無間地獄に陥れた張本人だと思っております。)

 

自分の価値を

「〇〇できること」で計るのではなく

「どれだけ幸せを感じることができたか」で考えられれば

不毛な承認欲求地獄から逃れられるのではないでしょうか。

 

SNSなどを遠目で見ていますと、誰もかれもが「いいね」を欲しがっている。

でも、他人は「自分を評価するためのモブ」ではありません。

「評価されること」より「他人の役に立つこと」「外界を素直に称賛し楽しむこと」のほうが、よほど人生楽しいと思っています。

 

話を教育に戻しますと。

本気でわが子の自己肯定感が心配なら、今のわが子の点数や立ち位置をそのまんま受け入れて欲しい。

条件付きでしか家族を愛せないなら、自分も「条件付きでしか愛されない」ということを覚悟しなければいけないと思う。

裏を返せば、自己肯定感の低い子の親御さん本人が自己肯定感が低いのでは?そのため、「〇〇が得られなかったら幸せになれない」と思い込みすぎているのでは?

 

 

東大生は「別解」が好き~いわゆる「壁」の正体とは

「今の受験教育、これでいいのか?」

中学受験に携わるようになってからずっと燻っていた疑念です。

(だからこそ、中受から距離を置くことに決めたわけですが)

 

私が今の多くの集団塾の教え方に疑問を抱いているのは、この辺境ブログを読んでくださっている方ならご存じのことと思います。

トップ層は、いまのままどうぞ羽ばたいていってください(笑

四谷だろうがサピだろうが在りし日のTAPだろうが、突き抜けた子たちはどういう教え方をされようと能力を開花させていきますので。

私が心配しているのは、Y偏差値50~60、学校の成績でいえば「5は取れないけど安定してオール4」の子たちがあまりに早期に「塾のやり方に染まる」ことの危険性です。

 

フィールドワークなどをしたわけではなく、あくまでも私の体験談になりますが。

東大生、あるいはいずれ東大に行くだろうな、という子たちは「常に『別解』を探している」んです。

私自身もそういう子供でした。

高校入試を含めテストと名がつくものはだいたい半分以下の時間で終わっていましたし、学校の授業は最初の数分で全部理解しましたから、よく「暇でしょうがないでしょう」と聞かれましたがそんなことは全然ありません。

なぜなら、常に「別解」や「教え方(授業後にクラスメイトに聞かれるので)」を考えたり、脳内で問題を作ったりしていましたから。

過去の教え子たちの中でも「これは伸びるな」と感じる子に共通していたのは

解法をひとつ教わったからといってそれで満足しない

点でした。

例えば、

連立方程式の文章題で「先生、わざわざyを立てなくてもこれxだけで表せるんじゃないんですか?それでやったらダメなんですか?」と聞く子。

余弦定理を2回使って解くのがセオリーな問題を、作図で解こうとする子。

現代文において、果敢に自分の解釈のどこがなぜダメなのか食い下がる子。

化学の実験で「順序を逆にしたらどうなるのか」が気になる子。

エトセトラ、エトセトラ。

彼らに共通することは

「答えが出たから終わり」ではない

という点です。

 

「ほかにもっと良い方法はないのか」と考える力。

これは人類の進歩の源と言っても過言ではないでしょう。

 

本来、「ある意味余計なこと」ともいえるこうしたことを考えるには、

・時間的余裕

・あれこれ考えることを許される環境

が不可欠です。

中受をされる方の中には、公立小学校の授業を馬鹿にしている方も少なくありませんが、この「あれこれ考える」余裕は中学受験勉強にはありません。

ある意味、その余裕のなさがわが子を「馬鹿(思考停止の意味で使っております)」にしてしまっているという皮肉な側面が、中堅層の中学受験には存在すると思っております。

 

このブログでは何度も書いておりますが、くどいけどやっぱり今日も書く(笑)。

本来、学びに「効率」を持ち込んではいけない

と私は思っております。

なぜなら、試行錯誤する過程そのものが学びだからです。

解法教わって当てはめて解く。

これってカシオ計算機と何が違うんですか。

進学塾では、導入に時間を割きません。

そして、講師が教えた解き方を即座に理解し短時間で「答えを出す」ことが優秀だとされています。

塾によっては、講師の伝授した解き方で解かないと叱られることもあるようですね。

これって「学び」の真逆なんじゃないんですか。

 

小学生を教えていて、年々強くなっている傾向があります。

昔の生徒は、新しい問題に出会ったときにもなんとか「自分のいま持っている武器」で戦おうと粘っていました。考えた末に「わかりません」ということはありましたが、開始30秒で「習ってません」ということはありませんでした。

最近は、真逆ですね。

「塾で(解法を)教わってません」

「その問題はやらなくていいって言われました」

問題文と格闘する前から、瞬時にそういう子が年々増えています。

これが「効率」というものなのだとしたら、私はそんなものは勉強じゃないと声を大にして言いたい。

エジソンじゃないですが、99の失敗の末に1の成功がある。

中学受験の過熱とともに、「最短距離の解法」を知りたがる子が増えている。

 

こなしきれない宿題

理解しきれない進度で進む授業

こういう状況下では、「ほかにないかな?」を考える余裕などないでしょう。

その結果、本来ならかなりポテンシャルを持っているY偏差値50~60あたりの子たちが、せっかくの高い能力を「いろいろな解法を試行錯誤する」ためにではなく、「これが最速と言われた解法で速く解く」ことに使ってしまう。

そして、「言われた『解法』で答えを速く出すことが勉強」だと思ってしまう。

なんともったいないことでしょうか。

「正答を最速で出すこと」を至上命題とされた子たちは、答えが出た時点で問題から興味を失います。だって、次から次に押し付けられる課題に疲弊しているから。さっさと「答え」を出して「楽になりたい」んですね。

逆に「別解考えるのが大好きっ子」は、「勉強時間が早く終わってほしい」とは思わないわけです(まあ、勉強終わったらアニメ見たいゲームやりたい、はあるでしょうが(笑))

 

三つ子の魂百まで。

 

本来なら頭が柔軟なはずの小学校高学年という時代に、「効率最優先」というモノサシで頭が固まってしまうのはあまりにももったいない気がしています。

 

「そんなこと(試行錯誤)は、無事中学に受かってからやればいいじゃないか」

「小6の2月1日までに『間に合わせなくてはいけない』んだから仕方がない」

という反論が聞こえてきそうです。

でも、その「とりあえず今は効率優先」そして後になって「じっくり」を取り戻す、というのは大人だからできる話です。大人は、人生にはいろいろな時期があることを経験で知っているから「とりあえず」ができるのです。子供の時に叩き込まれた人生観は、30歳過ぎるくらいまではそのまま定着します。人生観を作りつつある小学生に「効率こそ正義」と教え込み頭をカタくさせ、中学入学後に頭を柔らかくしろと言っても無理です。「恋愛は大学に入ってからすればいい」と恋愛を禁止した佐藤ママが頭をよぎります(苦笑)。

 

思い起こせば、効率優先がフォードのベルトコンベアであるわけで、賢いはずの方々がみずからを、あるいは自分の子供から発想力や思考力を奪おうとしているさまは皮肉にも感じます。

憧れの最難関校や新御三家などに入学する力がありながら、入学後最初のテストで10点という子たちも少なくないと聞きました。効率最重視の受験勉強で伸びしろを使い果たした結果かなあと切なく感じます。

 

本来は、子供は「余計なこと=教えてはいない別の方法」をあれこれ試すのが好きなのです。その、本来あったはずの力をなくしてしまう原因はなんなのか。

「こなしきれない宿題に追われる毎日」です。

大人だって、仕事に追われていれば新しい発想なんかでてきませんよね。

子供の「なにもしていない(ように見える時間)」が気になって苛々してしまうママさん、年々増えています。

「あの時間にドリルをやれば2ページできるのに」

それってブラック企業だと感じてしまうのは私だけでしょうか。

こういうママさんパパさんは、家庭教師をしていてかなりしんどいです(まあ、だからこちらから断ってしまいますが)。

彼らにとっては「何ページ進めたか」が至上命題なので、たとえ1題を掘り下げることで色々な角度でモノを考えることができるようになっても、そこには価値を見出していただけません。

子供の「別解を考える力」をいかに親がつぶしているかについては次回書きます。

 

「別解を考える」

その好奇心・時間的余裕を大事にしてほしいなあと願っております。

 

これは、以前にも書きました「講師(や参考書)の選び方」にもつながっております。

「ほかにもこういう解き方があるよ」と言う講師や参考書は一流。

別解を載せない参考書や、ひとつの解法に拘る塾や講師はちょっと避けたほうがいいかもしれませんね。

 

ちなみに東大時代、非常にありがたかったのは、

・東大生は、基本的にどんな話でも相手の話を集中して聞いてくれる

・聞いたあと、別の視点から意見を言ってくれる(日常にアウフヘーベンがある)

・噂話をうのみにしない(自分で調べたがる)

ことです(笑

社会に出るとこれがまた真逆でして、って、この話はまた今度書きます。