とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「無限の可能性」という言葉は無責任だ

聞き飽きた言葉の一つ。
「子供には無限の可能性がある」
ほんとにそう思ってますか?
私は違うと思ってる。
正確に言うと、それは子供の情熱次第。


パッションがすごい人間は、なんにでも挑戦する。
例えば私は自他ともに認めるパッション過多の人間(苦笑)。
若いころは、それを持て余し、しなくていい苦労もしてきた。
でもそのおかげで、新卒から十年に一度、まるっきり違う業界に転職してきたが、それぞれ自分でも満足できる結果を残してこられた。異業種での苦労、経験が今とても活きているのを感じる。

 

昨今は、あまり早いうちに道を決めることを怖がる傾向が強い気がする。
でもそれは「可能性が残されている」んじゃなくて、「決めてない」だけだ。
どの道を歩むか決めなければ、「どの道にも行ける気がする」けれど、それはまやかしだ。
道はさっさと決めて、向いてなかったら振り出しに戻って選びなおしたほうがいい。
分かれ道でぐずぐずとモラトリアムしている間に、「いったん別の道を選んでまた文岐路に戻ってきた人間」は、確実に経験を積んでいる。

芸術にしろスポーツにしろ、若いうちからやったほうがいいのは当たり前。
フィギア、将棋、etc。

だったら仕事も一緒だろ。
一度道を決めて突き進んで、限界を感じたらまた別のことをやればいい。

 

一時期不登校の子の通うフリースクールでも講師をしていたことがある。
もちろん、そこで生まれ変わったように自分の進む道を見出す子もいる。
でも、親が「時間稼ぎ」で大学に行かせたがっている場合、正直、予後はよろしくない。

やりたいことが見つからない、などと言いながら時間稼ぎに大学4年間行ってもっと馬鹿になるより、中卒高卒で資格とって仕事に就いたほうが、40代での生活はよほどマシ。人間的にも大いに成長する。これは机上の理想論ではなく、実際そういう知人友人がたくさんいるからだ。

 

話が逸れましたね(汗
可能性があるかどうかは、子供のパッション次第。
こればかりは、周りがどうこうできることじゃない。
持って生まれた気質が大きい。

 

いま、世の中の大人はキレイゴトばかり言う。
「君たちには無限の可能性があるんだよ」と。
無限の可能性、なんてウソ。「何も決めてないだけ」だ。

 

自由は不自由。
婚姻率の低下も、昔は親がさっさと縁談決めてきたから結婚してたのが、自由になったら「選んでいるうちに歳とっちゃった」。いや、それでいいならいいんだけど、自由にされて結婚できなくて40代で婚活…って、ちょっと子供がかわいそう。


進学、就職もそう。
一昔前は、学校の先生が「お前は商業高校な」って決めちゃってた(笑)。
でも、商業高校や工業高校は企業にパイプがあったから、彼らは就職できていた。
「子供に任せる」って、「自分が決めることの責任の重さ」から逃げている部分もあるように思う。学校の先生もそう。生徒の進路を先生が決めるとクレームがくるから「君はなんにでもなれるよ」とか大ウソこいてる(苦笑)。

 

私は常々、教育者って医者と似てるなと思ってます。

教育者が言いにくいこともズバリ指摘してあげないのって、医者が病気の人に「その生活続けたら死にますよ」って言ってあげないのと同じで、責任逃れだと思う。


親が子供の道を決めたら子供の可能性をつぶす?
そんなことない。
パッションのある子なら、親が何を言おうと反抗して自分の道を行きます(笑)。
特に芸術系はそう。
逆に言うと、親に難色を示されたくらいであきらめちゃうなら、その程度のパッションってことです。
だって、例えば子供のゲーム欲。
ゲームへのパッションはすごいですよね?
親に言われたくらいでやめないですよね?(笑)
そういうことです。

 

パッションのない子には「決断」ができない。
分かれ道の手前でずっとぐずぐずすることになる。
ニートの増加の一因って、それだと思っている。