とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

講師は親のここを見ている(3)~面談&メールの長さ~

以前書いたこととかぶってる気もしますが、まあブログというのは「その人のブログを過去記事まで全部さかのぼって読む」というものでもないと思いますので、気にしないことにします(笑)。

考えたら、出版されている本ですら焼き直しが多いわけですからね(これは、悪いことだとは思っていません。短期間での焼き直しはよろしくないですが、本というのは予想以上に早く絶版になってしまいますしね)

前置きが長くなりました。

 

講師側から見て「これは困る…」という筆頭が「面談やメールが長い」ことです。

いや、別にいいんですよ?

前も書きましたけど、私も今必要だなと感じたら小一時間面談してます。

面談やメールが長くて困るのは以下のケースです。

困る、というか、我々講師が困るというより「結局生徒が困る」ケースです。

 

 

 

1)「良い話」しか聞きたくない

 

面談が長くて「徒労感」を感じるのは

「親が聞きたい話しか聞きたくない」

ケースですね。

 

いろいろ相談されるけど、

「大丈夫!〇〇くんは××に受かりますよ!」

しか聞きたくないケース、多いです。

 

こういう場合

・××を目指すなら、今これだけのことはしなければ

・××の抑えとして、△△を調べておいてください

・××を目指すには、本人のやる気が不足しています

などの助言は、完全にスルーされますね。

 

もうね、話していてすぐわかるんですよ。

「あ~、聞いてないな」って。

だったら「相談」はしないでほしい、こちらの時間も有限なので。

 

というか、肝心のお子さんのためには、そういう話を「今」聞いていたほうが絶対にいい。この手の親御さんは、秋までは「聞かず」で通して「奇跡が起こるはず」と思ってる。でも、そこで奇跡が起きなくて慌てて抑え校を調べても、もう遅いです。

 

塾の先生や個人コーチが上記のようなことを言うときには、その100倍くらいの「問題」が起きています。塾の先生はクレームをとても恐れています。家庭教師のほとんどもそうだと思います。歯に衣着せぬことを言ってくれるのは「仕事に困らない売れっ子コーチ」だけです。

上記のようなことを言われた時には、ぜひ冷静になりましょう。

 

2)ひたすら愚痴

いや、いいんですよ?

親御さんのガス抜きをすることが、ひいては生徒本人のためになりますから。

でも、限度があります。

 

以前、同業者の方から「私は母親の愚痴は全部聞きます、それがプライベートな愚痴でも。それが家庭教師の役割だと思うので」と聞いてびっくりしたことがあります。

 

や、時々はいいと思うんですよ。

親御さんも、一人で溜めてる部分はありますから。

私も、そういうのは聞きます。

でも。

 

我々プロは「母親の愚痴相手」に、みずからの存在価値を置いてはいけない。

 

言葉は悪いですが、それは「母親を『落とす』」のには、一番近道です(苦笑)。

誰にも聞いてもらえない愚痴を話す相手、それに自分を位置付ければ、それだけで存在価値が出ます。ぶっちゃけ、母親の、子供や旦那さんへの愚痴を聞いて共感してあげれば、「母親からは」素敵なコーチだと思ってもらえます。そんな手は使いたくないけどな。

 

でも、我々がやらなければいけないことは、「生徒の望みをかなえること」。

親の愚痴を聞いて、共感してあげて、生徒はやっぱり第一志望は落ちて。

それでも「いい受験をしたよね」と言い合えるのは、親と講師だけです。

そんな「思い出作り」、つまり「茶番」に子供を巻き込んではいけない。

 

金を出しているのは親、だから親を満足させればOK、と考える講師は多いです。

子供ファーストな講師なら、親御さんの耳に痛い話もするはずです。

講師を「自分のカウンセラー」にしては、本末転倒です。

 

言い換えると、「私(母親・女)の悩みを聞いてくれる講師=良い講師」と思うのは危険だということです。もちろん、授業も素晴らしく、かつ親御さんのガス抜きをしてくれる講師もたくさんいるでしょう。でも、親御さんのガス抜き=愚痴聞きに力を置きすぎている講師は冷静に判断したほうが良いと思います。なぜなら、優れた講師はそこに力を注ごうとはしていないからです。

 

「この人、すごく『私の話』を聞いてくれる!」と思ったら、ちょっと冷静になってみてください。

 

3)メールが長く、送りつけたものは相手が覚えているはずと考える

 

面談が長い、とも共通する話です。

気持ちはわかります。

自分の思いのたけを、誰もわかってくれない。

だから、講師に長文メールを送る。

そこまでは、いいです。

人は、思いのたけを「書く」ことですっきりしたりしますからね。

 

でも。

「長文メールを送る」=「相手が全部了解してくれる」と思ってはいけません。

 

私、「共有」という流行り言葉が実は嫌いなんですよね。

好き勝手なことを書いて送り付けて、それで相手が「共有」すると思い込むのって失礼じゃないですかね?


本気で「共有」したいならば、それは通信にしろ対面にしろ、ディスカッションが不可欠です。自分が言いたいことをメールで送りつけて「共有」って超失礼。

 

まあ、「共有」は流行り言葉で使っているだけでそこまで深い意味はないと思いますが長文メールに「共有させていただきます」と書いてあるとムムム…と感じますね。

や、「共有」が「お知らせまで」という意味ならいいんですけど、多くの親御さんは「メールで送りつけた以上、その情報を講師は全部把握していて当然」という意味で「共有」という言葉を使われる方も少なくないので。。。

 

前回も書きましたが、長文メールを送ったら相手が全部それを覚えているはず、と考える親御さんは、子供に対しても同じ考え方をしてしまい、とてもリスキーです。