とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「ドラゴン桜」と「二月の勝者」の違い

この両者は、題材がともに受験ということもあって、よく比較されているように思う。

 

最近、この2作品には根本的な違いがあると感じた。

それは「子供本人の物語かどうか」という点である。

 

ドラゴン桜」は、終始、桜木先生が「人生を変えろ」「お前の人生このままでいいのか」と問いかけている。桜木が「あくまで東大」にこだわるのは、学歴偏重からではない。なにしろ、桜木自身が東大を出ていない。桜木が矢島や水野に「東大を目指せ」と連呼するのは、矢島や水野がこれまで人生と向き合わず、自分の努力で人生を変えようと思わず、環境に流されていたからだ。矢島は資産家の親に、水野は水商売の母に、という両極端な違いはあれど、二人とも親に潰されかけていた。学び、チカラをつけ、そういう「環境」を跳ね返せ!と桜木は語っている。

 

一方、「二月の勝者」は、優秀層の生徒に対しては、似たような流れである。順を毒親(父)から引き離し、自分の道を歩ませようとしている。また、潜在力の高かったまるみや加藤匠、三浦に関しては、親の過干渉を排除し子供を自立させようとしている。でも、この作品では、ドラゴン桜の矢島や水野のような劣等生は基本的に放置だ。非優秀層にこそ「目覚めよ」という啓示が必要に思うのだが。

 

「二月の勝者」では、子供自身に志望がある場合は親と闘ってでも子供の満足を優先しているが、いわゆる「見込みのない生徒」に関しては、「親の満足」が優先されているのを強く感じる。

まさに、中学受験の闇である。

「駒」の子供がどうなろうと、親を満足させれば金をいくらでも引き出せるのが中受業界だからだ。(高校受験・大学受験ともなると、親も子供の能力が薄々わかっているので無限に金を引き出すことは無理)

 

「勉強することで自分を変えろ」と生徒本人に説くのがドラゴン桜なのに対して、「有名中に入れば良い人生が送れる」と親に説くのが二月の勝者。題材は似ていても、テーマがまるで真逆だと感じる今日この頃である。どちらが良いという話ではなく、「二月の勝者」は、中受親向けの漫画なんだなと感じる。だからこそ、作者も子供本人には読んでほしくないといっているのであろう。