過熱する一方の中学受験の指導をしていて、日々思うことがある。
それは、東京という特殊な街は、子育てには向いていないんじゃないかということだ。
理由はいろいろあるんだけど、一言で言うと
「〇〇をしていい場所」が非常に細かく決められているということだ。
乳幼児~小学校くらいは、生き物としてとにかく体を動かしたい時期だし、また動かすべきだと思う。
また、自然からさまざまなことを学べる時期でもあると思う。
その時期に、東京では、都心に二百坪を超えるような土地を持っている「先祖代々勝ち組」以外は決められた時間に決められた範囲でしか身体を動かせない。
(マンションで子供を「放牧」するのはお勧めしない。下の階から間違いなく〇意を抱かれていると思う)
保育園の騒音問題では「うるさいと思うほうが人間としてダメ」のように言われるが、それも違うと思う。保育園は、たいがい「後から」できる。そして、できてしまった以上、未来永劫うるさい。保育所をうるさいと思う人を人として狭量だという方は、ぜひ保育所の隣に引っ越してみていただきたいと思う。
話が逸れてしまった。
「保育所うるさい問題」も、東京だからこそ起きる問題。
そして、東京には「空き地」がない。
権利関係がもつれたためかずっと空き地の場所もないではないが、そこは子供が遊べる場所ではない。
つまり、東京で暮らす以上、子供は「空き地で遊ぶ」ことは難しい。
私立小学校の子を教えたことも数多くあるが、その子たちの暮らしはまさにサラリーマンだった。中には小学生で通学1時間半の子もいた。
家と学校が離れている以上、「小学校の友達と遊ぶ」ことはほぼ無理。
家と学校の往復。
身体を動かせるのは学校での体育の時間と(通っているならば)スポ小やバレエの時間に限られる。
学校の友達は「学校の中だけの」友達。
毎日「日課」が細かく決められている。
〇曜日はバレエ、〇曜日はスケート、〇曜日は塾、etc。
最近は、中学受験が過熱しすぎて「塾に通わないと高学年では遊ぶ相手がいない」現象が起きている。これは、東京都心だからこその現象だろう。自分は、自分の子は中受をする必要を感じていなくても、周りがみんなそうだから「向き不向きを考えず」やらざるをえない。
初めは「みんな行ってるから」「行かないと放課後遊ぶ相手もいないから」行き始めて、それが簡単に「中受をして少しでも偏差値の高い学校に受かるべき」と変容する。
東京都心に住む以上、これは避けられないことなのかもしれない。
私自身は、東京近県で幼少を過ごし、大学で東京に出てきてそのまま東京のど真ん中に住んでいるが、東京の環境というのは「大人だから耐えられる」んじゃないかと思う。
旅行などで地方を訪れると、いつも思うことがある。
「ここで生まれ育ったら、もっと違う人生があったんじゃないか」
もちろん、ないものねだりなことはわかっている。
地方在住の方からしたら「それは東京を満喫しているから言えることで、地方には仕事がないんですよ」と言われるかもしれない。
でも、東京はたしかにチャンスも仕事も多いし給料も比較的高いけれど、その分生活費が馬鹿高い。結局トントンだと思う。
中受指導をしていると、多くの親御さんが「少しでも偏差値の高い学校に」と願っていらっしゃるが、「その先」を考えたことがあるだろうか。
ずば抜けて学力が高く研究者や起業家になるならともかく、つまるところ「給料の良いサラリーマン」がゴールなのでは?
私は二度と「人に雇われる仕事」が御免なので、「高く雇われる」ために22歳までのすべてを賭けるのは、なんだかおかしいなあと思っている。
中受に関しては、今期が終わり次第指導をやめる(多少は残るが)。
「それは昭和の発想だよ」と言われそうだが、私はやはり中学受験は昭和くらいのノリが良いのではないかと思う。
それはどういうノリかというと。
「地域に良い学校があって、一応受ける人はお試しで受けてみるけど、落ちても全然恥ずかしくなくて公立中に進む」というノリ。
今は、東京に住んでいてひとたび中受を目指した以上、「降りる」ことができない状況でそれはとても親子ともにしんどいんじゃないかと思う。
東京で育児をするということは
・幼児期に身体を思い切り動かせない
・「〇〇用の場所」でしか〇〇が許されない
・小学校高学年からは学校の友達と遊べない
ということとバーターだと思う。