とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

東大生は「別解」が好き~いわゆる「壁」の正体とは

「今の受験教育、これでいいのか?」

中学受験に携わるようになってからずっと燻っていた疑念です。

(だからこそ、中受から距離を置くことに決めたわけですが)

 

私が今の多くの集団塾の教え方に疑問を抱いているのは、この辺境ブログを読んでくださっている方ならご存じのことと思います。

トップ層は、いまのままどうぞ羽ばたいていってください(笑

四谷だろうがサピだろうが在りし日のTAPだろうが、突き抜けた子たちはどういう教え方をされようと能力を開花させていきますので。

私が心配しているのは、Y偏差値50~60、学校の成績でいえば「5は取れないけど安定してオール4」の子たちがあまりに早期に「塾のやり方に染まる」ことの危険性です。

 

フィールドワークなどをしたわけではなく、あくまでも私の体験談になりますが。

東大生、あるいはいずれ東大に行くだろうな、という子たちは「常に『別解』を探している」んです。

私自身もそういう子供でした。

高校入試を含めテストと名がつくものはだいたい半分以下の時間で終わっていましたし、学校の授業は最初の数分で全部理解しましたから、よく「暇でしょうがないでしょう」と聞かれましたがそんなことは全然ありません。

なぜなら、常に「別解」や「教え方(授業後にクラスメイトに聞かれるので)」を考えたり、脳内で問題を作ったりしていましたから。

過去の教え子たちの中でも「これは伸びるな」と感じる子に共通していたのは

解法をひとつ教わったからといってそれで満足しない

点でした。

例えば、

連立方程式の文章題で「先生、わざわざyを立てなくてもこれxだけで表せるんじゃないんですか?それでやったらダメなんですか?」と聞く子。

余弦定理を2回使って解くのがセオリーな問題を、作図で解こうとする子。

現代文において、果敢に自分の解釈のどこがなぜダメなのか食い下がる子。

化学の実験で「順序を逆にしたらどうなるのか」が気になる子。

エトセトラ、エトセトラ。

彼らに共通することは

「答えが出たから終わり」ではない

という点です。

 

「ほかにもっと良い方法はないのか」と考える力。

これは人類の進歩の源と言っても過言ではないでしょう。

 

本来、「ある意味余計なこと」ともいえるこうしたことを考えるには、

・時間的余裕

・あれこれ考えることを許される環境

が不可欠です。

中受をされる方の中には、公立小学校の授業を馬鹿にしている方も少なくありませんが、この「あれこれ考える」余裕は中学受験勉強にはありません。

ある意味、その余裕のなさがわが子を「馬鹿(思考停止の意味で使っております)」にしてしまっているという皮肉な側面が、中堅層の中学受験には存在すると思っております。

 

このブログでは何度も書いておりますが、くどいけどやっぱり今日も書く(笑)。

本来、学びに「効率」を持ち込んではいけない

と私は思っております。

なぜなら、試行錯誤する過程そのものが学びだからです。

解法教わって当てはめて解く。

これってカシオ計算機と何が違うんですか。

進学塾では、導入に時間を割きません。

そして、講師が教えた解き方を即座に理解し短時間で「答えを出す」ことが優秀だとされています。

塾によっては、講師の伝授した解き方で解かないと叱られることもあるようですね。

これって「学び」の真逆なんじゃないんですか。

 

小学生を教えていて、年々強くなっている傾向があります。

昔の生徒は、新しい問題に出会ったときにもなんとか「自分のいま持っている武器」で戦おうと粘っていました。考えた末に「わかりません」ということはありましたが、開始30秒で「習ってません」ということはありませんでした。

最近は、真逆ですね。

「塾で(解法を)教わってません」

「その問題はやらなくていいって言われました」

問題文と格闘する前から、瞬時にそういう子が年々増えています。

これが「効率」というものなのだとしたら、私はそんなものは勉強じゃないと声を大にして言いたい。

エジソンじゃないですが、99の失敗の末に1の成功がある。

中学受験の過熱とともに、「最短距離の解法」を知りたがる子が増えている。

 

こなしきれない宿題

理解しきれない進度で進む授業

こういう状況下では、「ほかにないかな?」を考える余裕などないでしょう。

その結果、本来ならかなりポテンシャルを持っているY偏差値50~60あたりの子たちが、せっかくの高い能力を「いろいろな解法を試行錯誤する」ためにではなく、「これが最速と言われた解法で速く解く」ことに使ってしまう。

そして、「言われた『解法』で答えを速く出すことが勉強」だと思ってしまう。

なんともったいないことでしょうか。

「正答を最速で出すこと」を至上命題とされた子たちは、答えが出た時点で問題から興味を失います。だって、次から次に押し付けられる課題に疲弊しているから。さっさと「答え」を出して「楽になりたい」んですね。

逆に「別解考えるのが大好きっ子」は、「勉強時間が早く終わってほしい」とは思わないわけです(まあ、勉強終わったらアニメ見たいゲームやりたい、はあるでしょうが(笑))

 

三つ子の魂百まで。

 

本来なら頭が柔軟なはずの小学校高学年という時代に、「効率最優先」というモノサシで頭が固まってしまうのはあまりにももったいない気がしています。

 

「そんなこと(試行錯誤)は、無事中学に受かってからやればいいじゃないか」

「小6の2月1日までに『間に合わせなくてはいけない』んだから仕方がない」

という反論が聞こえてきそうです。

でも、その「とりあえず今は効率優先」そして後になって「じっくり」を取り戻す、というのは大人だからできる話です。大人は、人生にはいろいろな時期があることを経験で知っているから「とりあえず」ができるのです。子供の時に叩き込まれた人生観は、30歳過ぎるくらいまではそのまま定着します。人生観を作りつつある小学生に「効率こそ正義」と教え込み頭をカタくさせ、中学入学後に頭を柔らかくしろと言っても無理です。「恋愛は大学に入ってからすればいい」と恋愛を禁止した佐藤ママが頭をよぎります(苦笑)。

 

思い起こせば、効率優先がフォードのベルトコンベアであるわけで、賢いはずの方々がみずからを、あるいは自分の子供から発想力や思考力を奪おうとしているさまは皮肉にも感じます。

憧れの最難関校や新御三家などに入学する力がありながら、入学後最初のテストで10点という子たちも少なくないと聞きました。効率最重視の受験勉強で伸びしろを使い果たした結果かなあと切なく感じます。

 

本来は、子供は「余計なこと=教えてはいない別の方法」をあれこれ試すのが好きなのです。その、本来あったはずの力をなくしてしまう原因はなんなのか。

「こなしきれない宿題に追われる毎日」です。

大人だって、仕事に追われていれば新しい発想なんかでてきませんよね。

子供の「なにもしていない(ように見える時間)」が気になって苛々してしまうママさん、年々増えています。

「あの時間にドリルをやれば2ページできるのに」

それってブラック企業だと感じてしまうのは私だけでしょうか。

こういうママさんパパさんは、家庭教師をしていてかなりしんどいです(まあ、だからこちらから断ってしまいますが)。

彼らにとっては「何ページ進めたか」が至上命題なので、たとえ1題を掘り下げることで色々な角度でモノを考えることができるようになっても、そこには価値を見出していただけません。

子供の「別解を考える力」をいかに親がつぶしているかについては次回書きます。

 

「別解を考える」

その好奇心・時間的余裕を大事にしてほしいなあと願っております。

 

これは、以前にも書きました「講師(や参考書)の選び方」にもつながっております。

「ほかにもこういう解き方があるよ」と言う講師や参考書は一流。

別解を載せない参考書や、ひとつの解法に拘る塾や講師はちょっと避けたほうがいいかもしれませんね。

 

ちなみに東大時代、非常にありがたかったのは、

・東大生は、基本的にどんな話でも相手の話を集中して聞いてくれる

・聞いたあと、別の視点から意見を言ってくれる(日常にアウフヘーベンがある)

・噂話をうのみにしない(自分で調べたがる)

ことです(笑

社会に出るとこれがまた真逆でして、って、この話はまた今度書きます。