中受の算数入試問題は、
ところに毎度モヤモヤしてしまう。
(あらかじめお断りしておきますが、あくまで個人の感想です)
1)言葉の定義があやふや
・「2で何回割り切れますか」問題
1から100まで掛け合わせたとき、2で何回割り切れますかと言った問題。
「商が整数で、かつ余りを出さずに」とか「自然数の範囲で」と、なんで書かないんだろう。商が有限小数になってよければ2の累乗や5の累乗では、何度だって割り切れる。「いや、割り切れるというのは整数の範囲というのが常識でしょ」という声が聞こえてきそうです。たしかに、約数倍数は「割り切れる」と言う言葉を使って教えていますからね。でも、だったらなぜ小数の除法の単元では「割り切れるまで計算しなさい」という問題が出されているんですか?
塾で「その場に合わせて忖度して答えを出しなさい」という教え方がされているからこそ中学校側も深く考えずに出題しているんだとは思いますけれど、要はそれって中学側も塾ありきになっているわけでなんだかモヤモヤしますね。
たとえば、もし仮にノー塾の子がこの問題を見たとき、算数ができる子ほど「2ってなんでも割れるんだけど?」となり、解けないことになるケースは大いに考えられます。
さらに細かいことを言うと、「最大で」という註釈も必要ですよね。
・「赤い球と白い球の取り出し方は何通りありますか」問題
これも、悪しき慣習です。
人は区別するけど球は色が同じなら区別しない、というのが「暗黙の了解」になってる。これが大学受験なら「ただし、球は色が同じなら区別しない」とか但し書きがつくところです(もっとも、そんなヘンテコリンな問題は大学受験では出ませんが)。
「みかんとりんごの取り出し方は」なんかも同じですね。これはもっとひどいですね。みかん3つを取り出す場合、当然「3つならどれでもいいや」ではなく「選ぶ」のが当たり前ですよね。
この場合も、本質のわかる子がそこで悩みだすとかえって正解が出せないというおかしな現象が起きます。
また、こういう学び方をしてしまうと、中学高校で確率の問題でつまづきます。
たしかに理科でも「中受段階ではここまでは知らなくていい」という一種の割り切りはあります。でも算数の問題において「定義があやふや」なのは個人的にモヤモヤする。
2)三角形の合同を証明しないでも使える
図形問題で「三角形ABCと三角形DEFは合同なので」という解説をよく見ます。
一切証明してないのに(笑
だからなのか、最近の難関中学では「一見合同に見えるけど実は合同じゃない」図形問題を出していますが、「合同はパッと見で判断してよい」と思い込んでいる小学生はそこで混乱することが多いです。
これも逆のケースとして、「三角形の合同を利用するには証明が必要」と考える子はそれを考えている間に時間が過ぎ、「パッと見で同じだから〇〇センチでいいや!」という子が得点できてしまうという怖いケースも多々見てきました。
3)「何度出会いますか」問題
学校や模試によって、「出会う」とは反対方向からの場合のみ、と「同時刻に同一地点にいる」場合も含めるケースが混在していますね。これも但し書きをつけるべきだと思います。
4)ほかにもいろいろあるけど
言い出したらキリがない。もちろんほかの教科の入試問題も、より高度な次元から見たらザルな表現は多いんだけど、こと算数に関しては曖昧な表現を「忖度させる」「そういう慣習になっているから」というのはモヤる(個人の意見ですが)。中学入試の中で算数の比重が高すぎるだけにね。
まあ、中学側からしたら、そこまで数学的に厳密でなくともなんとなく得点ができる子(得点力が高い子)のほうが欲しいのかもしれない。そういう子が欲しいなら、今の出題方法でも良いのでしょう。でも自分自身が小学生の時分にそこまで考えるタイプだったので(ノー塾ですが)、現代ならそこまで考える子はもっといると思うんだよな。だからモヤモヤするというお話でした。