とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

パリ五輪に思う。

また4か月ほど空いてしまった。

「書きたくなったこと」について、何度も考えて熟成している間に4か月ほども経ってしまったということだろうか。

 

年々、都内の中受が過熱し、

・50分座っていられない

・「てにをは」がわからない

etc...なのに(だからこそ?)私立中を目指すご父兄が増え

悶々とする毎日では、ある。

 

それは置くとして。

 

もはや、だいぶ古い話題ではあるが、パリ五輪を観て感じたことを書く。

 

1)日本人の「美学」は、「カモ」になるだけ

 

ぶっちゃけ、今回のパリ五輪は、柔道団体戦を境に見るのをやめた。

たしかに、リネールは強い。

あの「リネール確定ガチャ」をイカサマという気はない。

だが、「『リネール確定ガチャ』をしてもおかしくないな」と思わせるだけの行動を、「ホスト国」のフランスはしていたと思う。

 

アスリートずぶ濡れでも気にせずセーヌ川からの入場を強行したこと。

他国ドン引きの、自己満足の開会式セレモニー。

ありえない誤審の数々。

選手へのメシが足りない。

数え上げたらキリがない。

ホスト国としてありえない。

 

日本の柔道は、シドニーで天才・篠原が「審判が技を知らなかったというクソ低レベルの誤審」で銀になったときにも「自分が弱かったからだ」と言った篠原を「良し」とする風潮があるが、大いに間違いだと思う。

尾三四郎選手にしても、審判次第で一本に認められた可能性は多いにある。

阿部一二三選手の相手は、まったく組まなかった。

だからこそ、「正当なアピール」は不可欠。

西洋人がよくやるように、失礼にならない塩梅で「肩をすくめてアピール」するだけで、審判に「こいつは『うるさい』な」と思わせられる。

審判も人間なので、「こいつにヘタな判定はできない」と思わせることは本当に大事。

日本人は「正しく生きていれば、正しく評価してもらえる」という美学で生きているが、世界はそんなに甘くない。

日本人はお人よし過ぎる。

隙を見せればつけこまれるし、自分が正当な場合ですら引き下がれば「カモ」だと思われるだけ。

 

日本人が「自分のほうが正しいという主張」を嫌うのは、歴史的な文化もあるし、「無理を押すゴリ押しの人たちの姿がみっともない」と感じるせいもあるだろう。私も「明らかに間違っている人がゴリ押しをする姿」は嫌いである。

だが、それとこれとは違う。

世界では、「主張しない意見はないことにされる」のだ。

だからこそ、正当なアピールはするべきであるし、アピールする人を嫌悪する風潮は変わるべき。

 

とはいえ、日本において「アピール」をする人たちの多くが「ごり押し」勢なので、日本人気質のまともな人たちが、それを醜いと感じ、ますます黙ってしまう傾向なのは、いかんともしがたいねえ。やっぱり、教育現場から変えていかないといけないんだろうな。

 

2)日本人の多く(一部?)が無条件に憧れるほど西洋の知的レベルは高くない

開会式、ひどかったですね。

アタマ悪いんですか?とすら感じた。

フランス革命が、実はグダグダでルイ16世とアントワネットをギロチン送りにした後はロベスピエールたちが内ゲバしてどうにもならなくなってナポレオンが出てきたこととか忘れたかのような、あのセレモニー。

つーか、ですよ。

切られた首を持つアントワネットを「ロックでしょ?」とばかりに見せつけることを良しとする思考は、私にはまったくわからない。

よくオーストリアは怒らなかったな。

 

浅はかなんですよ、すべての演出が。

髭面の「女性」を躍らせて、最後の晩餐を揶揄して、それで「カッコいい」と思うのって「中二病」以外の何者でもない。

 

東京オリンピックは、真逆。

「誰も嫌な思いをしないように」と配慮した結果、一部の(とにかく政府与党に文句を言いたい)人たちの格好の餌食になってしまったけれども、「誰も嫌な思いをせずに楽しめるように」っていうのは、ホストとして必要最低限のことではないのかしら?

 

パリ五輪の開会式は、偏ったイデオロギーの方たちの自己主張の場でしかなかった。

アスリートずぶ濡れでマクロンとバッハだけ傘をさされてるとか、あほか馬鹿かと。

日本人の「他国の目」を気にしすぎるところが、1)で言った「カモ」には通じるんですけど、逆にここまで他国の目にどう映るか気にしないフランス人もすげーなと思い増した(褒めてません)。

 

逆に言うとね。

「その程度」なんですよ。

美学とか知性とか。

日本は敗戦以降、やたらと卑下する傾向が強いですが、ありのままを見てありのままに判断するべきだと思います。。。

 

つまり、何が言いたいかと言うと。

日本人は、まず「他国からどう思われるか」を気にするけど、よその国々はそんなこと考えてない。そのことを、まず自覚しないといけない。それを自覚しない限り、永遠にカモにされるだけ、ということ。

 

それにしても、昭和ならいざしらず、いまだに「西洋はスゴイ!それに比べて日本は!」と言ってる人たちって何を見てるのかな、といつも思います。。。

 

3)ジェンダーについて

ボクシングで、生物学上男子か女子か判然としない選手が出場しました。

これに対し、世間は「男子が女子と闘うなんてありえない!!!」とバッシング。

いや、もちろんそれはわかります。

 

でもね。

だったら言いたいんだけど。

なんで、男子のトップアスリートの闘いを女子が審判してるんですか???

サッカーにしろバレーにしろバスケにしろ、男子と女子の競技のスピードって次元が違いませんか?

それは筋力だけの違いですか?

私は、そうは思いません。

動体視力、瞬時の判断力。

これらが、男女では大きく違うと思っています。

今回大いに物議をかもしたバスケと柔道の審判。

なんで、男子トップアスリート同士の闘いを女子が審判してるんでしょうか。

目は追いついてるんでしょうか。

 

教育現場でも如実なんですが

人は「自分ができない高レベルのことは判断できない」

んですよ。

たとえば、極端な話、数3が理解できなくても小学生に算数を教えることはできます。でも、その小学生が自分の理解を超えた高度な解き方をしたとき、その講師はそれを認められない(わからないから)。そんなもんです。

 

なんで「筋力以外の男女差は無視」になるんでしょう。

前の記事

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

でも書きましたが、

男女差って、明らかにあるんですよ。

念のため申し添えておきますが、男のほうが「優れている」と言いたいわけではないです。でも、男女では興味の対象が違うし(多くの男子は無機物が好き、女子は「人間関係」が好き、など)それを無理やり「同じ」ってことにすること自体にゆがみが生じているのが現代だと思っています。

 

ボクシングで男女が闘うのは駄目だと言いながら、男子の闘い(一生を賭けた)を女子が審判するのはOK、ってなんか矛盾してません?

 

私の考える「男女平等」は、

・性差(興味の対象が違う、など)を認め

・「男子のモノサシ」「女子のモノサシ」それぞれを認め

・男子女子ともに「外れ値」は、それはそれで認める

ことだと思っています。