とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「しゃべらない子」が一番教えにくい。原因は親のことが多い

コーチングについてちょっと原稿を頼まれて書いている間に、またもや時間が空いてしまいました。でも、「話してみる」「書いてみる」ってやっぱりいいですね!担当編集的な立場の方とディスカッションしている間に、フワフワとしていた考えがどんどん言語化されロジックが立ち上がっていくのは毎度驚きますし、楽しいです。

 

そう、私が「ディスカッション型授業」「大学のゼミ型授業」をする理由も、ここにあります。

コーチ側が一方的に「教える」のではなく、生徒に喋らせる。

そうすると、生徒の中で自然と自分の疑問点が明確になっていきます。

 

私のように意識してディスカッション型授業をするコーチの方でなくとも、やはり「生徒からの発信」があるのとないのとでは、教えやすさが段違いなのは同業者の方ならわかっていただけると思います。

 

逆に言うと、「話さない生徒」が一番教えにくい。

たとえて言えば、「コーチから尋ねられても答えない生徒」というのは、「体調不良で医者に行っても問診票に何も書かない、医者の問いかけにも答えない患者」と同じですからね。

 

この「自分からは発信しない子」は、タイプがわかれます。

大きくわけて

「集団の中では自己主張できないが、1対1なら話せる子」

「相手を信頼し、安心しないと話せない子」

「他人が『忖度する』のを待っている子」

の3タイプですね。

上2タイプについては、個別指導が吉と出ることが多いです。

1つめの、集団では自己主張できない子は1対1ならOKですし、2つめの、信頼するまで話せない子については、信頼関係を築くことでコミュニケーションに問題はなくなります。

 

厄介なのが、3つめの「他人が『忖度する』のを待っている子」です。

このタイプは、イエスノーすら答えない。

「ここまでの説明、わかった?」と聞いても答えない。

「大人が察する」のを待つのが当たり前になってしまっている。

 

個人コーチが必要になる場合、こうした自分から発信できない子のケースが多いです。

いささか気になるのは、親御さんが「人見知りなのでしゃべらない」という間違った判断をしているケースが多い点です。

「人見知り」ならば、コーチと信頼関係が芽生えればコミュニケーションはとれるはず。何か月経って、信頼関係があると判断できる状況でも自分の考えを言えない場合は、原因は別にあると考えます。

 

ズバリ、こういう子は「他人が面倒を見てくれることに慣れすぎている」んです。

 

自分が何も言わなくても大人が察してくれるはず。

だから、イエスノーで答えられる質問にも答えない。

こういうお子さんは、授業がひたすら「受け身」です。

 

こういう「しゃべらない子」「受け身な子」は、「解説をすれば授業をしたことになる」と考えるコーチや、あるいは集団塾にとっては「楽な子」でしょう。

逆に、私のように「その子の学力を引き上げたい」と真に考えるタイプのコーチにとっては、正直一番教えづらい相手です。

 

こういう子を思い返してみると、経験上、ある法則に思い当たります。

「しゃべらない子」の親御さんは

もれなく「先に手出し&口出しをするタイプ」でした。

子供が自分で試行錯誤するまえに「正解のやり方」を教えてしまう。

子供が靴紐を結ぼうと四苦八苦しているときに、さっと手を出して靴紐結んじゃう。

 

「どうせ『正しいやり方』とやらを言われるなら黙ってやってもらった方が楽」

「自分でやるのは損」

ととらえる子もいるでしょうし

「あとから叱られるのが怖い。正解を言われるまで黙っておこう」

ととらえる子もいるでしょう。

 

手取り足取り、先取りで口出し手出しをする親御さんは、オンライン授業でも横にベタ付で子供に「指導」されます。ささやき女将かよ(笑)。

 

子供や若者は、「試行錯誤したい生き物」なんです、本来は。

試行錯誤の中で、本当の力を身に着けていきます。

試行錯誤する力こそ、本当の学力であり、ひいてはこの世を生き抜く力です。

 

「ウチの子、しゃべらないんですよ~」という親御さんは、これまでを振り返って

「自分が我が子の『発信する力』を奪ってこなかったか?」を考えてみていただきたいと思います。

 

なお、私は「しゃべらない生徒」に『忖度』すなわちその子の気持ちを過剰に代弁し、あれこれと必要以上に世話を焼く授業はしません。(信頼を築くまでの数週間は別です。大人を信用できなくて喋れない子には、まず心をほどくことが大事だからです。でも、その時期を超えても「他人だけに喋らせる」子に、いつまでも忖度授業をすることはしない、という意味です)

答えやすい質問にするなどの工夫はいたしますが、「生徒が答えないのに授業を進める」ことはいたしません。それは、単に「授業をしたというアリバイ作り」になってしまうと考えるからです。そっちのほうが楽なのはわかっていますが(笑)、それは生徒のためにはなりませんので。

【和文和訳】という勉強法はいかが?~国語・現代文を「テキトー」に済ませている諸君へ~

今日はちょっと嬉しいことがありました。

「ミコトの授業を受け始めてから、学校の授業を面白く感じるようになった!だから学校の授業も馬鹿にせず真剣に受けるようにしたら、たくさん『発見』があった!」

と言われました。

コーチ冥利に尽きるとはこのことですね。

私は常々「コスパ重視の受験ノウハウ」が大嫌いです。

そもそも学問においてコスパって何ですかね。

わかりやすい先生が良い先生とは限らないんですよ。

かの鷲田清一先生も仰っている通り「わかりやすいはわかりにくい」かもしれません。

わかりやすい授業は、生徒を「わかった気にさせるだけ」かもしれませんよ。

この話は長くなりますので、また別の機会に。

 

さて、今日は現代文でお悩みのみなさんに向けて、ひとつの勉強法のご提案です。

 

ズバリ和文和訳」です。

 

なんじゃそりゃ?と思われたことでしょう。

そりゃそうです、だって私がさっき作った造語ですから(笑

 

現代文、難解ですよねえ。(中受でも、最近は「これは小学生には無理だろう」という文章がガンガン出されていますね)

 

今回ご提案する【和文和訳】という方法は、国語の苦手な小学生にはちょっと難しいかもしれません。(逆に、国語が得意だけど、あと一歩!という子。渋谷幕張や豊島岡が出すような、高校生でも難しく感じるような問題を解きたいという子にはお勧め)

 

まず、何度も書いていますが、国語が苦手な場合は「問題」をたくさん解いてはダメです。それでは絶対と言っていいほど読解力はあがりません。本文が理解できていないのが原因なのに、問題だけたくさん解いても本末転倒。

 

まずは、ムズカシイ文章をしっかりじっくり読みましょう。

 

で、ですね。

よく、「要約が読解力向上に役立つ」と言うじゃないですか。

その手の本も結構出ています。

これは、「本文がだいたい理解できている」場合には有効です。

でも、本文の5割くらいが「何言ってんのかわかんない」場合には、要約は禁じ手です。

なぜなら、「半分くらいわかんなくても『要約っぽいもの』は書けてしまう」からなんです。

 

恐ろしい話ですが、それなりに要約を書けていても「さっぱりわかっていない」ことは十分ありうるのです。なぜなら、要約は「ここが大事っぽい」と感じたことを「つなげれば」要約になってしまうからなんですね。

 

現代文のテクニック本って結構あるじゃないですか。

「『たとえば』のあとは消していい」

「『しかし』のあとが著者の主張」

とかね。

だから子供たちは、「よくわからないけど『キーワードっぽいもの』をつなげて『それっぽい』文章を書く」ことで満足してしまって、本当にその文章を理解することを放棄してしまうケースが多発するわけです。

これらのテクニックには、断固として「否」と言いたい。

 

では、「しっかりわかる」ためにはどうしたらいいか。

そこで和文和訳】です。

 

英語もね、実は「逐語訳」が一番チカラが付きます。

最近は「大意がわかればいい」という教育方針なようですが、それは間違ってますね。

わからない部分を見なかったことにして、わかる部分だけテキトーに読み繋いで

「大意(笑)」とやらが分かった気になっても

それは文章を読んだことにはなりません。最近の中高の英語教育がこっちになってて非常にヤバいなと思っているのですが、これまた長くなりますのでまた今度。

 

さて【和文和訳】ってなんぞや。

それは、

一見わかりにくい本文を、わかりやすく書き直すこと

(私は大人の文章教室では「リライト」とも呼んでいます)

わからない文章を飛ばすことなく、一文一文「わかりやすく」書き直す。

これは、本気でガチで本文と「格闘」しないとできません。

「要約」は、それこそ自分の書いている文章の意味がわからなくても書けてしまう。

そこが、【和文和訳】と【要約】の違いです。

 

大学入試の現代文では、レトリック多発の文章だらけですね(汗

こう言ったらなんですが、著者が自分に酔ってあえて難しく書いているようにしか思えない文章も多いです。

 

だいたい、みなさん一文が長すぎるんだよ(笑

一文が長いと頭良く見えるからなのかな(笑

養老先生を見習っていただきたい。

さはされど、著者のみなさんは別に大学入試のために文章を書いたわけではない。

その方の寄稿された文芸誌なり学会誌では、レトリック多発かつ一文が長い超難解な文章でも理解されていたのでしょう。

 

で、ですね。

こうした難解な文章を「そのまま」理解しようとしても普通は無理です。

「余計な修辞」が多いから。

だから、私のレッスンでは生徒に黒マジックを持たせています(笑

著者の方には申し訳ないけど、「余計な飾り」を全部黒マジックでいったん塗りつぶして「理解」させる。

そうして意味が理解できたら、もちろん消す前の本文をもう一度読む。

 

英文和訳では、まず「SVOC」をしっかり見極めますよね?

でも、母国語だからなのか、難解な長文をそうやって分析しないでテキトーに読むからわかんなくなるんです。

 

1)SVOCを見つける

2)それ以外はいったん消す

3)骨組みを書いたうえで、2)で消した「修辞」を(必要なら)戻す

この流れで、難解な日本語が驚くほどシンプルに「見えて」くるはずです。

 

「やたらと長く」「持って回ったカッコつけた文章」は、一度リライトすることで、あるいは英語を理解するときのようにSVOCを分析することで、格段にわかりやすくなります。

 

ここで例に挙げるのは大変に失礼ですが、それでも私はこれを例に挙げずにはいられない(笑)。2004年センター試験で出題された、リービ英雄「thereのないカリフォルニア」の一文です。

 

「四季がはっきりしていることが現実にとっても文学にとっても重要な特徴であり続けてきた日本から来ても、あるいは日本以上に四季の変化が豊かなアメリ東海岸から来ても、はじめて体験するカリフォルニアの自然は、実にショッキングなものである」

 

うーん。

長すぎるよね(笑

もうね、この書き出しを読んだだけで、半分の受験生が嫌になったと確信する(笑

 

これを「リライト」してみましょう(もちろん、今から私が書く文章が「ただ一つの正解」ではないですよ。要は「自分がわかるように」書き直そうということです)

 

「日本では、四季がはっきりしている。それは現実にとって重要なのはもちろんのこと、文学の上でも重要だ。そんな日本以上に、アメリ東海岸では四季の変化が豊かである。そういった、四季のはっきりした国から来ると、カリフォルニアの自然はかなりショッキングである。」

 

さらにシンプルにすると

「日本やアメリ東海岸のような、四季の変化がはっきりした国から来ると、カリフォルニアの自然はかなり異質でショックを受ける」

 

どうでしょうか。

私の文の巧拙は置くとして(汗)、はるかに理解しやすいのではないでしょうか。

なぜ元の文章がわかりにくいかと言うと、ひとえに「一文が長い」からです。

超個人的な見解を言わせていただくと、養老先生のような「一文は短い、しかし言いたいことは非常に高次元」な文章が良い文章だと思うのですが。

なんでしょうね、一文が長くなる理由は

・しゃべるように書いている

・わかりにくいほうが頭よさそうに見えるから長くする

・短くするスキルがない

と、超個人的には考えています(笑

 

長く、わかりにくく書かれた文章を、そのまま理解しようとしてはいけません。

和文和訳】して、「自分にわかるように書き直して」から理解しましょう。

ぶっちゃけ、大学受験に出されるような文章を書く方々は、高校生に向けて書いてはいません(苦笑)。レトリックまぶしまくった、持って回った言い回しの、一文が3行にわたるくらいの文章を理解する「同業他社」すなわち学会に向けて書いています。

だから、そのままでは高校生がわかるわけがないんです。

 

ぜひ、「一文ずつ(英語のように)和訳」してみましょう。

そうすると、「自分がどこを理解していなかったのか」がわかります。

ざっと読んでテキトーに要約、テキトーに選択肢選ぶ、では見えないことが見えてきます。

 

「わかんねー!」という難解な文章は、(日本語だからとテキトーに読まず)外国語だと思って、一文ずつ【翻訳】してみましょう。

 

「正しい予習」の仕方

以前書いた記事にご質問をいただき、あらためて読み直してみました。

mikoto2020.hatenablog.com

いささか舌足らずだったような気がしますので、自分の考えを整理するために再度掘り下げてみたいと思います。

 

1)小学生の場合「解法予習(先取り)」は逆効果。するなら「概念予習」を。

 

私が小学生に「解法予習」「机の上での予習」は不要、と考える理由。

それは、学ぶ喜び・考える楽しさを奪うからです。

 

幼児が何にでも興味を示し、触ったり口に入れたりして「世界を知る」のと同様、まだまだ小学生のうちは見るもの聞くものすべてが新しく、それらをひとつひとつ自分の五感を使って頭をフル稼働して「わかっていく」ことが楽しいわけです。

 

この段階をすっ飛ばして「解法」を教え込んでしまうと、「答え」はすぐ出せるようになる子はたしかに少なくありません。ここに罠があります。一見「時短」に見えますが、「正答が出せる子」が本当に「理解」しているわけではありません。くもんで代数を先取りしていたはずの子が中高数学で詰んでしまうケースがこれにあたります。

 

蛇足ながら。

「ウチの子、割合の問題でよく割る数と割られる数を間違えちゃうんですよ~」という御相談をしばしば受けます。多くのご家庭でそれを「ミス」と考えていらっしゃるようですが、厳しいことを言わせてもらっていいですか?それは、「公式の『意味』がわかってない」んです。時々間違えるだけだからミスだと思っちゃうんでしょうが、「割合とは何か」「速さとは何か」「濃度とは何か」が理解できていれば間違えるはずがありません。公式丸暗記して(おそらく「はじき」)当てはめていれば答えは出て「しまい」ます。多くの親御さんが、マルがついていると安心してそれ以上追究しませんが、マルかバツかではなく、原理がわかっているかどうかに注目してあげて欲しいと思います。

 

一番怖いのは「未知のものに出会ったとき、まずは自分でなんとかしようとする姿勢」が身につかないことです。

塾で解法暗記ばかりやらされている生徒は、新しい問題を「教わってません」「見たことありません」と考えようともしないというのは以前書いた通りです。

逆に小学校低学年で「自分であれこれやって解く喜び」を知ると、それは一生の財産になるといっても過言ではないでしょう。

 

解法を丸暗記させる行為は、ゲームに例えていえば子供自身があれこれ工夫してなんとか前に進めようとしているときに、攻略本を見せてその通りにやらせようとすることです。子供は途端にやる気をなくしますよ。攻略本読みながらやるゲームほど無意味なものはない(笑

 

2)「概念の予習」は生活の中で!

 

小学校で新しく目にする「概念」としては、数の概念や四則計算と言った基礎を除けば以下のようなものでしょうか。

・「〇桁」の意味

・分数、小数

・容積、体積

・時間

・角度

・速さ、濃度、密度などの「単位が組み合わさった量」

・比、割合

 

ほかにもあるかとは思いますが、小学生がつまづきやすいものを上げてみました。

上5つ(角度まで)がスッと入らない場合は親御さんはかなり焦ると思いますが、そこでドリルを増やしたりするのは禁物。なぜなら、桁の意味や容積体積、時間などは日常生活からこそ学ぶべきものだからです。

「1リットルは1000ミリリットルだって何度教えたらわかるの!?」と叱りつけても意味がないどころか逆効果です。

ではどうしたらいいか。

一番いいのは台所のお手伝いですね。

何度も書いていますが、台所は算数・理科の宝庫です。

このレベルの単位などがスッと入らない子にドリルを何枚やらせても嫌々やるだけでますます勉強を嫌いにさせます。

一緒に料理して、材料の計量などさせる方がよほど身につくと思います。

人間、頭で覚えたものはすぐ忘れますが身体で覚えたものは忘れません。

 

下二つは、それまで算数に問題を感じなかった子が壁に当たる分野ですね。

なぜなら、「ひとつのモノサシで計れない=目に見えない量」だからですね。

km/hのように、2つの単位が組み合わさった概念は子供にはかなり難しいようです。

だからといって、すぐに公式暗記に走るのは禁物。

これまで、徒歩の時速を150キロと答えて平気な子供をたくさん見てきました。

チーターか(苦笑

「速さ」については多くの塾でいきなり「距離を時間で割ったものが速さです」と教えているようですが、ここには時間をかけてほしいなあ。

いろんな乗り物や生き物のどれが一番速いか考えさせて、「なぜ?」と問うような。

小学校での教え方ですね。

 

比・割合は速さ以上に多くの子がつまづきます。

私は自分の個人塾では、「比べるということ」について考えさせるたくさんの手書きプリントを作り、「比で比べたほうが良いケースに子供が自分で気づく」ことを心がけてきました。「『〇〇は』を『〇〇の』で割ればいいから!」と塾で何度教わっても間違える子は、初めのうちは割合の問題を死んだ魚のような目をして解いていましたが、「意味」がわかると俄然いきいきし始め、その後は間違えなくなりましたね。

これをご家庭でやる場合は、やっぱり料理が一番わかりやすいのではないでしょうか。

プリンのレシピを渡して、「レシピにはタマゴ1個と書いてあるけど、今日は3つ使っちゃおう!牛乳を用意してくれる?」というような。

そこで子供が分量間違えても、そのまま作ってしまいましょう。味がヘン…となったら、子供も自分で次はどうしたらいいか考えるのではないでしょうか。その中で、だんだんと比や割合を理解していくはずです。

実生活の中で「間違える」ことこそが、学びに繋がります。間違えを悪とし、間違えてはいけないと刷り込むと、「やり方を教わるまで自分からは動かない」子になってしまいます。

 

3)サピで「概念の予習」が必要な理由

 

サピだけではないんですが、授業のスピードやテキストの「不親切さ」においてサピが一番顕著なので例に出させていただきました。

小学校や実生活の中で「概念」を知り理解する前に進学塾でその単元になってしまうと、「食塩を食塩水で割ると濃度になります」というような、超乱暴かつ本末転倒な教え方をされます。しかも、その説明はほんの数分、すぐに問題を解かされます。

さらに乱暴な塾になると、いきなり「はじき」の図を書かせ、数字を入れれば答えが出るから!と教えているところも多いと聞いています。子供をカシオ計算機にする気ですか!?(怒

 

そういう教え方をされてしまう前に、「濃いとか薄いとかってどういうことだろう」「どうやって比べたらいいんだろう」ということを、じっくり時間をかけて「理解」してほしいんです。それができるのは、いまや家庭(あるいはウチのような私塾)しかありません。小学校はこういう教え方をしてくれますが、残念ながら学校でじっくり体験する以前に塾で「教わって」しまいますから。

 

この「概念予習」では、いわゆる問題を解けるようにする必要はありません。

たとえば、

「100グラムの水と20グラムの塩」

「200グラムの水と30グラムの塩」

を用意し、「どっちがしょっぱくなるかな?」という実験などはいかがでしょうか。

ざっくり半分くらいの小学生は、塩が多いほうがしょっぱいと予想するでしょう。

予想と違うと、疑問がわきます。

「そうか、同じ条件にしないと比べられないんだ!」と気づけばグッドですね。

これだけで1時間くらいはかかってしまうでしょう。

でも、新しい概念というのはこれくらい時間をかけて良い、いやむしろかけるべきだ、と私は考えています。

 

4)家庭での「概念予習」の参考になるのは「教科書」!

 

実生活の中で「概念予習」「実体験」が必要なのはよくわかった、でもどうやったら…と悩まれる方にお勧めなのが「小中学校の教科書」です。

灯台下暗し。

小学校の算数や理科の教科書を見てみてください。

新しい単元に入るときに、いきなり公式や解法など書いてありません。

たとえば「啓林館 未来へひろがる数学」の「文字と式」の導入では、

「画用紙をマグネットで貼るようにいわれたけいたくんは、必要な個数がわかりませんでしたが、先輩がさっと用意してくれました。先輩はなぜすぐにわかったのでしょう」という「エピソード」が描かれています。

こういう、一見無駄に見える「導入」が大切だと私は考えます。

高校の教科書になると、さすがにドラマ仕立てのエピソードは減りますが、「身近な例を挙げて、さあこの単元ではこういうことを学びますよ」と冒頭に書いているのは共通しています。

市販の多くの参考書や問題集との一番の違いはここですね。

教科書というのは、「まず興味を持とうよ!」「今から学ぶことは身の回りのことに関係があるよ!」というところから始まるわけです。

市販の参考書や問題集よりも、さらに「解法一直線」なのが塾のテキストです(汗

サピのテキストにもね、一応申し訳程度にさぴおくんたちが会話してたりしますが、当日配られてあそこ読む余裕ないですよね…

話を戻しまして。

 

良くも悪くも、受験塾では数年先のことを教えられてしまうわけですから、それ以前にご家庭で「実体験に基づいた導入」をするとすれば、数年先の教科書を買ってみて単元ごとの導入をご参考にするのはなかなか効果があると思いますがいかがでしょうか。

私も、家に書庫を一部屋作らなければいけないほど教材を買い集めてきましたが、最近は「一番いいのはやっぱり教科書だな」と感じております。

 

余談ながら、過去記事にも書きましたが、進学塾の中で「概念の理解」を大切にしていると感じるのは日能研です。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

「栄冠への道」は素晴らしいと思います。公式を学んだあとにも、「なぜそういう公式になるのかもう一度考えてみよう」というページが必ずあります。日能研さんは、栄冠への道を市販したらいい、いやするべきです。

この良さを、日能研に通塾しない限り知ることができないのはもったいない(回し者ではありません念のため(笑)

 

5)高校生はバンバン予習しよう

 

言を翻すようですが、高校生はバンバン予習するべき

その理由はいくつかあります。

 

まず、中高で初めて触れる概念はさらに高次元に抽象化しており、「テキストで先に学ぶことが興味関心を阻害する」「机上の学びと実生活が乖離する」恐れが少ないこと。

小学生が過剰な先取り学習をすると「実体験から学ぶという脳の回路」が遮断されがちで机上の計算と実体験が結びつかない、だから食塩水の濃度を平気で230パーセントとか答えるわけですし、かつ「わかったつもり」になって身の回りの現象に興味がなくなるわけですが、中高生は脳のキャパも増大していますから「抽象的な事象からも知的好奇心を刺激され得る」ようになっています。

 

次に、中高とくに高校生で学ぶ内容はすさまじく多く、まっさらな状態で授業に臨むと板書を写すので精一杯になります。すると、「学校の授業はつまらない」となります。この「つまらない」は「興味がもてない」ではなく「わからない」なんですが、若いうちはここを混同しがちです。

かといって完璧に予習、ましてや過剰な先取りをする必要はありません。

ざっと教科書を読んで「次の授業ではどんなことをやるのかな」と頭に入れるだけで授業の理解度が変わります。すると、どんどん学校の授業が楽しくなります。

いわば「ドラマやアニメの『予告編』を見ておく」感じですね。

 

巷では、公立小中学校の授業は遅すぎる、だから高校2年までに詰め込んで高3はフルで演習ばかりやるのが良いなどとまことしやかに言われておりますが、私はそれには懐疑的です(灘や開成除く)。

そういうことを言う人は、高校生の脳がまだまだ成長過程であることを忘れているんだと思います。

多くの自称進学校で高1にセンター数1Aやセンター化学や私立大物理を解かせ、平均点が低いことを教師が嘆いてますが、私に言わせてもらえば噴飯物です(怒。

高1と高3では、脳の処理速度が違うんです。

数1Aを履修したから大学入試レベルの数1Aが解けるだろうというのは、その部分の認識が欠落しています。自称進学校では教師が定期テストを自分で作らず入試問題を切り貼りして出すこともあるようですが、あり得ないですね。「入試の数1A」は、高3で解ければいいんです。

灘高校が高3は演習だけ、というのは「灘だからOK」なんです。

単純思考でその真似をすることは非常に危険だと考えています。

 

受験ギョーカイの人は何かというと公教育や学習指導要領を鼻で笑いますが、よくよく見ると、教科書や指導要領は「子供の脳の成長」に合わせているという点で非常によくできていると思いますよ。

これに関しては話すと長くなるのでまた別の機会に(すでに長いですが(笑))

ともかく、文句を言っても始まりません。多くの高校で無理な先取りが行われている以上、予習なしではとうていついていけません。予習なしで特急スピードの授業を受けるのは、いわば授業のたびに「借金」作ってるようなもんです。借金には利息がつきます(笑)。復習だけで返すのはしんどいです。予習して、授業を復習として利用するのがよいと考える理由はそれです。年単位の先取りは不要ですが、授業の予習はするのが吉。

 

思い起こすと、私の頃の公立高校は学習指導要領通りでした。

まあ一応3年の12月までにはギリギリ終わってましたが、のんびり教えてもらったからこそ脳がバグを起こさず、受験勉強が高校3年の1年間のみで東大に入れたんだなあと母校に感謝しています。

「当たり前」を増やそう~塾の勉強に全振りする前にするべきこと

先日、ひどく体調を崩し病院に行く羽目になりました。

検査で半日入院することになりましたが、運悪く隣の病室の子供が大変に騒がしく(汗

病室でバネ仕掛けのミニカーをがしゃがしゃと走らせ大声をあげながら走り回るのを聞くのが辛いと感じたのは私の心が狭いせいではないと思いたい(笑)。

つい苛々してしまったのは、親御さんが、子供がさらにはしゃぐような対応(構ってしまう)をしていたこと、周囲に悪いとは思っていないらしいこと、でした。

 

いわゆる発達障害的なものでじっとしていられない、という感じではなく

親に構ってほしくてわざと悪いことをするパターンでした。

なぜなら、その子は一人で待合室にいるときは静かだったからです。

親にかまってほしかったんでしょうね。

そういうときは完全スルーするほうが効果が高いように思うんですが。

 

「最近の子は」と書くと老害と言われそうですが(笑)、教育現場にいて体感するのは

「親以外の他人を屁とも思っていない子」「他人の目が怖くない子」が増えたなあ、ということです。

昭和の方なら「よその知らないおじさんおばさん」から注意された経験がある方は少なくないのではないでしょうか。

私も、何度もあります。

その場ですぐに自分の悪さに気づき恥ずかしくなり反省したこともありますし、内心カチンときたこともあります。

でも、得難い「学び」だったなと思います。

なぜなら「ウチの常識と世間の常識は違う」ことに気づかせてもらえたからです。

 

翻って現代は、コロナ禍のスーパーで、唾でベタベタの手で商品触りまわってる子にそっと注意しただけで親から「子供のすることなのに!」とガチで逆ギレされる時代ですからね(実話)。ほとんどの都会人は子供が何をしていても見て見ぬふりなんじゃないでしょうか。

 

学校も同様ですね。

「怖い先生」の「厳しい指導」はTwitterなどですぐ晒されます。

厳しい指導とは体罰のことではありません。

眼力があると言いましょうか、その先生に黙って見つめられただけで自分のウソが見抜かれたとわかり怖くなる存在。子供だからと大目に見てくれない先生。

そういう意味での「怖い大人」は必要だと私は考えています。

大人になった今、思い出すのは甘い先生や子供受けの良い先生ではなく、子供を大人として扱い、悪いことは悪いこと、と自らが嫌われても毅然としてらした先生です。

 

このブログでは何度か書いておりますが、

「授業を受ける資格を感じない生徒」が年々増えております(溜息)。

タメ口なんてかわいい方です。

ガムを噛みながら何を聞いても返事をせずに、ゲームチェアにふんぞり返り、メモひとつとらない小学6年生。

そういう子がいわゆる「はねっかえり」ではない「普通の子」というのが怖いです。

さらに、私を認めていないから見下した態度をとるわけではなく、私を尊敬し好きだと言っているそうなので、もはや脳がバグりそうです(笑)。

つまり、その子たちは

「テストの点数だけが正義」

「ふんぞり返って教えてもらうことが『当たり前』」

と「学習」してきてしまっているんですね。

一度身についてしまった『当たり前』をくつがえすのは、ものすごいエネルギーが要ります。その子にとってはそれが当たり前なので「なぜダメなのか」を、(それが当たり前だと言うことを納得したくない)子供に理解させるのは至難の業です。

まあ、私は最近「『私が』嫌だからやめろ」と言うことにしていますが(苦笑)。

最初は「そんなこと言われたことない」と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていますが、「なんかよくわかんないけど(好きな)ミコトがそういうならそうしよう」と表面上は変わってくれることが多いですが、なんで小6に幼稚園の先生のような指導をしなければいけないのかと(苦笑)。

 

そういう子がなんでそれが当たり前になっているかというと、親御さんにとってもそれが当たり前だからなんですね。親御さんからも「タメ口がダメとか生徒が寝転がるのがダメだなんて知りませんでした」と言われるというのは以前も書いた通りです。

真剣に授業を受けなくて成績が上がるわけないんですが、どうもその辺がわからない親御さんが増えてます。

 

当たり前のことを、幼いうちに当たり前だと身につけさせてもらえなかった子は不幸。

なぜなら、その子たちが成長してから「当たり前」を身に着けるにはすさまじいエネルギーが必要だからです。

「ポツンと一軒家」で暮らすならマイルールでいいと思います。

そうではない以上、いつか最低限の常識を身に着ける必要が生じます。

その時期は、あとになればなるほど辛い。

 

おそらく、最近の「躾アレルギー」とでも言うような風潮、学校のルールに対する過剰な反発は、戦前教育の反動なのかなと思います。校則に反発するのは若者の通過儀礼でもあるでしょう。

でも、校則に従う=すわ全体主義!というのも短絡的な気がします。

ドラゴン桜」にもあるように、「型破り」というのはカタを身に着けたからこそできること。カタ=当たり前を知ろうともせずに好きなようにするのは「形無し」です。

 

同じタメ口やフレンドリーな子でも、カタを知ったうえであえて崩している子と、精神的に幼児のままの子は全然違います。前者の子は、TPOでサッと変えられます。

 

これも何度かブログで書いていますが、「うちの子は内申取れそうにないから中受させる」ってやっぱり間違ってると思うんですよね。公立中の内申なんて、当たり前のことを当たり前にやってたら普通に取れますって。それを親御さんが心配しなければいけないレベルだとしたら、まずしなければいけないことは「当たり前のことを当たり前にできるように教育する」ことじゃないんでしょうか。

期限は守る、とか。

約束は守る、とか。

遅れたら謝る、とか。

ウソはつかない、とか。

やるべきことをやることに苦痛を感じない、とか。

当たり前のことを身に着ける時間と労力を全部受験勉強に振り向けても、そもそもそういう風に生活が偏っていた場合、学力をつけるのにも多大な悪影響があります。よしんば仮に運よく学力だけ上がって、当たり前のことをできないまま偏差値の高い中高に上がって最終的に苦労するのは生徒本人だと思います。

文字通り「勉強『しか』できない子」が着実に増えていると感じる今日この頃です。

下の子の方が「できる」のは当たり前。

1か月以上も空いてしまいました(汗)。

日々考えることは多く、毎日心の中でブログ記事を書いていたようなものですが、なぜかアップできず。

またマイペースで書いていこうと思います。

 

さて、前回記事に嬉しいコメントをいただきました。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

この記事に書いたように、日能研の先生はきめ細かく、そして現在も引き続き公式は意味がわからなければいけないと真の学びをされているというコメントでした。承認させていただきレスを書きたかったのですが、それをお気遣いになられ承認しないでOKですということでしたので、私の勝手で承認するのもいけないかな、と本文でのご返事とさせていただきますm(__)m

(私信となりますが、コメント承認やレスはまったく負担ではありません。それどころか、嬉しい活力ですのでご遠慮なさらずお願いいたします)

 

つまるところ、「中受さえ乗り切れればそれでいい」という「その場しのぎ」の受験勉強は百害あって一利なしということです。

中学受験算数は「その場しのぎのテクニック」で、一定の点が取れてしまうところが怖いですね。あるレベル以上になると、公式に適当に当てはめただけでは正答はでないような作りになっていますが、逆を言えばある程度までは「適当に割ったりかけたりすれば答えが出る」のが怖いところです。

と、この話は書き出すと長いので、今日の本題を。

 

私は兄弟姉妹を教える機会が多いです。

上の子が一段落つくと、次は下の子を、というパターンですね。

お兄さんやお姉さんを教えた際の教え方を認めていただけたということですから、素直に嬉しいです。ありがとうございます。

 

で、その際にほぼ100パーセント目の当たりにする事実。

 

それは「下の子のほうができる」事象です。

 

これ、当たり前です。

 

「上の子」は、なにもかもにおいて「パイオニア」です。

小学校に通うこと、そこでの人間関係、通塾、受験勉強、エトセトラ。

受験勉強に絞っても

・塾のカリキュラム、リズム

・定期試験(マンスリーやカリテ)対策

・何を優先するべきか

そういったことにおいて、「上の子」は手探りの中、自分で開拓せざるを得ません。

自分で開拓することは楽しいことですが、反面、試行錯誤も多いです。

私はその試行錯誤を無駄とは言いたくありませんが、時間の限られた受験勉強の中では結果的に「回り道だったな」ということも多いでしょう。

そもそも、「私立中を受験する」こと自体がご家庭の中で初めての体験なわけで、学校選びから学校見学、情報の取捨選択、などなど本人のみならずご家庭全体が試行錯誤されるわけです。

 

「下の子」は、楽なんです。

だって「生きた見本」がそこにいるんだから。

どの程度勉強すればどの程度伸びるのかもわかるし、塾から山ほど渡されるテキストの全部を真剣にやらなくてもいいこともわかる。

一番のメリットは「〇〇受験はそんなに怖くない」とわかること。

これは「ドラゴン桜」にも書いてありましたね。

進学校の一番のメリットは「遊んでいるように見えた先輩が〇〇に受かること」。

それを見ていると、自分にもできる気がしてくる。

これ、めちゃくちゃ大きいです。

実際、私も姉が東大に行ったのを見て「私ほどは頭良くない姉ちゃんが行けるなら私も東大行けるじゃん♪」と思ってましたから(苦笑)。

今になって、パイオニアの姉に頭が下がる思いです。

 

もう一つのポイントは「親御さんが『慣れている』」点です。

上の子のときは試行錯誤。

塾のテキストも全部やらせようとしていた。

でも、下の子のときは「どこまで手を抜いていいか」わかってる。

 

下の子のほうがができるのは「当たり前」なんです。

 

で、今日の記事で言いたいことはこれ。

 

上の子を立ててほしい。

成績や進学実績で下の子ばかりチヤホヤしないでほしい。

 

兄弟姉妹を教えていると、(私の経験の限りでは)100パーセント下の子のほうが偏差値の高い学校に進学しました。

そうすると、多くのご家庭では、それが「実力差」だと思ってしまう。

下の子にばかり目がいき、極端な場合「上の子が下の子の阻害要因になるのでは」などとご相談されるご父兄もいます。

それは上の子に対してひどすぎる気がします。

「生きたお手本」があり、親御さんも育児や教育に慣れてからの「下の子」が上の子よりできるのは当たり前。

 

まあ自分もそうでしたが、下の子って要領いいっていうか、そういう親の対応の違いも敏感に察して兄姉を馬鹿にしたり自分のほうが優秀アピールするんですよね。。。(いまさらながら姉ちゃんごめん。。。)

ただでさえ、下の子は「幼い」すなわち「かわいい」という超強力な武器を持っています。

「パイオニアである上の子が切り開いた地平」があってこその、下の子の優秀さ。

それをふまえて、単純な偏差値の違いで兄弟姉妹を「比べ」ないでもらえたらな、と思う今日この頃です。

日能研のテストとテキストはかなり良いと思う理由。

中学受験の塾選び。

Youtubeやブログなどで比較されていますが、なんというか…比較するポイントがどれも「大人基準」だなあと残念に感じることが多いです。

親御さんが気にされるのは、まずは合格実績、ついで年間費用かな。

次が、親の手間がどれだけかかるか。

その次が塾の雰囲気(体育会系とかドライとか)。

 

もちろん、それらも大事なポイントだと思います。

でも、私は一番大事なのは「テストの内容」と「テキスト」だと思っています。

私の知る範囲で、それらの違いを書いてみたいと思います。

 

1)サピックス

言わずと知れた「分冊」形式。

毎回新しいことをやるのが小学生に良いという触れ込みですが、まあそれは気分の問題だと思います(笑)。たしかに小学生は新しいものが大好きですからね。

また、小学生は目の前のことにしか集中できないという理由もあるそうです。

 

でも、それって小学生の頭脳を馬鹿にしすぎじゃないかな?と私は思う。

自分の子供の頃を思い出しても、教科書が配られたら速攻で最後まで読んでしまったり、あるいは先でどんなことやるのかな?とつまみ食いしたりしていました。

そうしている間に、自然と頭の中に「学問の体系」が育っていったと思っています。

 

「目の前のことに『だけ』集中させる」というのは、馬を走らせるときに目に覆いをかけるのにそっくりですね。

たしかに、「効率」は良いと思います。

でも、このやり方が通じるのも小学生までなんですよね。

サピックス中学部が結果で早稲アカに大きく水をあけられているのはそこをわかっていないからだと思います。

 

あと、社会と理科は分冊にはまったく向いていないと思いますよ。

 

テストはαから最下位クラスまでまったく同じものを解くので、中下位の子はテストのたびにメンタル削られると思います…。

 

2)四谷大塚

これまたいわずとしれた予習シリーズ。

今般大幅改訂されたようですね。

個人的に、問題の途中でページまたぎをするのが見づらいなあと思っています。

算数はチャート式のように新しい問題は新しいページ、が頭に入りやすいのでは。

解説部分はやや見づらいのですが、問題のページは非常にやりやすいですね。

基本・練習・発展がきっちりわかれていて難易度がわかりやすいのが良いです。

 

また、四谷大塚はクラスによってテスト内容が変えてあるのが良いですね。

基礎クラスなら、まず基礎の問題をきっちり取りに行くことが基本。

でも、サピのように全員同じ問題が配られると、どうしても難問にも手をつけてしまう。そして、返却されたテストは半分以上真っ白。これはメンタル削られます(^^;

テスト内容がS,C,B,Aとわかれているのはとても良いと思います。

そして、他クラスのテストも実費を出せば買えるなど、自社のテキストを門外不出にしていないところは非常に好感が持てます。

過去問データベースではいつも大変お世話になっております(笑)。

 

テキスト自体は教科書的=標準的で、ぶっちゃけ市販のもので代用可能ですが、算数の「四科のまとめ」は非常に良いです。難易度は超難しいわけではありませんからこれ一冊で難関対策になるというわけではありませんが、5~6年生の春休みに一通りやって「穴」を見つけるのに最適です。薄いのでさっさと終わり、達成感が得られます。

 

3)日能研

 

ここのテキストとテストには、指導側のポリシーを強く感じます。

「解ければそれでいい」ではなく

「深く考えて欲しい」というポリシーです。

 

特筆すべきは、「栄冠への道」の中にある「研究」のページ。

「解法」や「公式」を教えて終わり、ではなく。

「この解法のどこがどんな風に良いのか考えてみましょう」

「どうしてこの公式になるのか考えてみましょう」

というページが「発展」扱いではなく問題演習に行く前のページに挟んであるのです。

 

これは、「生徒に『自分の頭で考えて欲しい』」という思いの表れだといえます。

たしかに、これをやると「効率」は悪くなるでしょう。

中学受験くらいの内容だと、「なぜそうなるのか」をじっくり考えさせるより、「教えた解法を使えるようにさせる」ほうが手っ取り早いです。

でも、それをやると目先の点数は上がるけど「考えない子」になるんですよね(^^;

「(解法を)習ってないんでできません」と言い放つ小学生のいかに多いことか。

そうやって「解法暗記」で中受を乗り切っちゃうから、高校数学で詰むわけです。

 

さて、日能研のテストで特筆すべき点。

こちらも、クラスによって「ここまで解こう」というのが分かれています。

さらに、これはサピにも四谷にもない点が

・毎回記述問題がある(解き方を書く)

・「問題を作ろう」という問題がある

これは素晴らしいと思いますね。

 

私自身、授業で「問題を作る時間」を取り入れていますが、生徒の反応ははっきりわかれます。

・問題を作るのを楽しむ子

・問題を作るのが苦手だけど、少し補助するとできる子

・「問題を作ってみよう」の意味が分からない子

この3つ目が非常に問題で、サピ偏差値60を叩き出していても、まったく問題が作れない子、作ろうとしない子、結構多いです。

彼らは「出された問題を次々に打ち返すのが勉強」だと思っていますね。

 

ぶっちゃけ言って、

問題を作れるかどうかは思考力のリトマス試験紙になります。

好奇心のリトマス試験紙にもなります。

本来、子供というものは問題を作るのが好きなはずなんです。

新しいことを知ると、親にクイズを出したがる。

「短時間で大量の問題を解かせる」という今の受験塾の勉強法は、子供たちの能力をかえって低める気がしてなりません。

 

蛇足ながら、問題を作れるかどうかは講師のリトマス試験紙にもなります(笑)。

三流:出された問題の解法をマニュアル通りに解説できる

二流:問題集や塾のテキストの「別解」を提示できる

一流:その子にあった問題をその場で作れる

 

話を日能研に戻しますと。

テキストにもテストにも、「学ぶとは本来こういうものだ」という熱い思いを感じます。電車の中吊り広告の「四角い頭を丸くする」にもそれは現れていますね。

ただ、そのやり方が「促成栽培」を望む今のマーケットに合っていないため、残念ながら入塾者が減少→「実績」がふるわない→入塾者が…というスパイラルなのかもしれません。また、テキストの理念が素晴らしくても、現場でそれを存分に発揮できていないということもあるかもしれません。

でも、「学問」が好きな私としては、日能研のようなテキストとテストに溢れる理念をわかるご家庭や、それを通じて「学問の面白さ」に目覚める小学生が増えてくれたらいいなあと思っています。

 

あ、念のために言っておきますが日能研の回し者ではありませんよ(笑)。

(このブログを最初から読んでくださっている方にはおわかりかと思いますが)

「勉強すれば可能性が広がる」のウソ

中受をやっていると、よく親御さんから言われます。

「中学受験をして(少しでも良い学校に行ければ)可能性が広がるので」と。

ま、ほとんどは本音を隠してるだけだと感じていますが。

本音は「少しでも偏差値の良い学校に行ってほしい」。

でも、それを子供に言うのはなんだか嫌だ。

「可能性が広がる」というと聞こえがいい。

だから子供にもそう言って中学受験をさせる。

経験上、そういう親御さんがほとんどでした。

 

でも、歳をとったからこそわかることがあります。

中学受験して私立に行ったからって、可能性は「広がり」はしません。「シフトする」だけ。

 

1)勉強=可能性に繋がる条件

勉強することで可能性が広がる子も、たしかにいます。

それには条件があります

「勉強って面白い」と気づく子

です。好奇心が強い子が学びによって「視野」が広がれば、たしかに可能性は広がるでしょう。

 

一方、勉強が嫌いでいつも親とバトル、こういう子はやらせればやらせるほど勉強が嫌いになっていきます。こういう子にとって勉強は「テクニックの暗記」「作業」でしかないので、どれだけやっても視野は広がるどころか狭まり、かつ偏ります。

 

2)ハードルが上がることで「可能性」は狭まる

 

そもそも「可能性」ってなんですかね。

偏差値の高い中学に行って偏差値の高い大学に行けば「可能性」って広がるんですか?

私はそうは思わないです。

むしろ、狭まります。

偏差値の高い大学に行けば行くほど、「こんな仕事は俺/私のする仕事じゃない」と思うようになります。

仕事だけではありません。

住むところ、乗る車、果ては結婚相手にしても「自分にふさわしいもの」以外は認められなくなっていく。

 

世間で一流と言われる会社に入ると、ますます選択肢は狭まります。

私は新卒でそういう会社に入りましたが、社員のみなさんの価値観がものすごく偏っていたのを覚えています。

住むなら東京都心(港区とか)23区西部(杉並、世田谷など)。

車は少なくとも〇〇クラス以上(カローラとかありえない)。

などなど。

 

そういう価値観の彼らには、東京を捨てて近県や地方で「子供が土を触れる生活」を選べない。都心に家を建て、あるいはマンションを買い、子供に「家の中で走っちゃダメ!」と言う生活を選ぶ。

どちらが良いという意味ではないです念のため。

選んだ方向に選択肢がシフトするだけで、可能性が広がるわけではない、ということを言いたいだけです。

 

3)「もったいない」の気持ちが生む悲劇

お子さんに「勉強したら可能性が広がるよ」とキレイゴトを言っている親御さんに聞いてみたい。

本気で「広がる」と思ってますか?

もし仮に、勉強してそこそこの偏差値の学校に行った子が「俺は大工になりたい」「私は漫画家になりたい」と言いだしたら喜んで認めてあげられますか?

違いますよね(苦笑

中受するからには、大学に行くからには。

「そこまで行ったのにもったいない」という気持ちが働きますよね。

 

親御さんだけじゃないです。

一番の悲劇は、本人が「〇〇まで行ったのに、こんな仕事にはつけない」つまり「俺が/私がもったいない」と思ってしまうことです。

残念ながら、中受をさせる親御さんが望むようなホワイトカラーの枠は、そこまで多くはありません。そこで仕事と志望のミスマッチが起きます。社会問題になっているニートに関しては、この「ミスマッチ」が一番大きな原因だと思っています。

 

不登校からニートになる子たちの背景はひとくくりにはできませんが、発達障害的な要素を偏差値で埋めようとして中受にエネルギー全振りし、結果的にそこそこの私立中に行ったもののそこで「電池切れ」からの不登校になり、でも本人には「中受したプライド」があるため「カッコいい仕事」「手を汚さない仕事」以外は受け付けずニート、というケースを多々見てきました。

発達障害的な要素を高偏差値の学校に行くことで埋めようとするリスクに関しては過去記事に書きました。

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4)生き方が狭まる悲劇

 

前項とかぶりますが。

私には山登りやスキーなどの趣味があります。

そこで知り合った方の中には、勉強が苦手or嫌いで高卒で看護師になられた方や警察官や消防士になられた方、あるいは自営の方もたくさんいます。

山やスキーって、そこそこ、いや結構お金かかります。

でも、彼らは悠々と趣味を楽しんでいます。

生活にもキツキツ感はない。

 

「一流企業に雇われないと生活が苦しい」というわけではない。

なぜなら、一流と言われる会社に入れば入るほど、前述したように家や車にシバリが出て、結局自由に使えるお金は変わらなかったりするからです。

俗に言う「2馬力」「パワーカップル」でも、意外と日々の生活がキツキツでいつもお金のことばかり考えている家庭が多いのも「固定費」が高いからだと思います。

 

AIの台頭により、いわゆる「事務職」「営業」などのホワイトカラーはどんどん需要が減っています。企業側も、昭和や平成初期と違って大学名より学部を重視しています。

「何学部でもGMARCH日東駒専の名前がついてればなんとかなる」時代ではない。

 

高校卒業後は専門学校で資格を取り、しっかりとした道を歩む人生もある。

でも、結構なお金をかけて私立中高一貫に入れた親御さんも、「私立」に入ったことで妙なプライドを持ってしまった子供自身も、よもや高卒で消防士になるとか専門学校に進んで資格を取るとか、そういう人生は選択肢から外れると思います。

そっちのほうが堅実で精神的に豊かな人生である場合も多いわけですが、そういう「選択肢」が考えられなくなってしまうのは、本人にとっては悲劇なケースも多いと感じています。

 

 

5)「ステータス全振り」の落とし穴

遊びながら御三家や東大に受かるタイプ。

これ、一定の割合で存在します。

そういう子は、ガンガンに勉強して開成や桜蔭目指せばよいでしょう。

かけっこが速い子がオリンピック目指すのと同じですから。

 

でも、そうではない場合。

小学生という二度と返ってこない「貴重な時間」を、受験勉強、しかも「わかってないけどとりあえず塾で習った解法当てはめて解くトレーニング」に全部ぶっこむことになります。

 

中受算数を教えていてよく感じるのは

「正答できているけど『わかっているわけではない』」

子が多いってことですね。

何十回も塾で叩き込まれれば、なんとなくできるようになるし「うっかり」答えがあってしまったりする。

彼らは、遅かれ早かれ中学高校で数学につまづきます。

これはなぜなんだ、とずっと考えていたんですが、最近ようやくわかった気がします。

中受算数は「本質をわかっていなくても解けてしまう」部分があるんです。

超難関や上位校はもちろんその限りではないですが。

なんとなく数字をいじっていると答えらしき数字が出る。

不愉快に感じられるであろう例えになりますが、ぶっちゃけワンコに芸を教えているのと同じです。

「割合の問題で、どちらで割るかわからなくなる子」は、本質の理解ができていない可能性が高いです。「割合」「速さ」「食塩水」はその子が本質を理解しているかどうかのリトマス試験紙になります。

 

小学校高学年の時間や生活を受験勉強に全振りするのは、ゲームで言えば「ステータス全振り」というやつです。

「その時期にしか学べないこと」があります。

このブログでは何度も書いていることですが、受験塾に2年通ってもテキストの内容が半分以上わからない場合、「中学受験には」向いていないんだと思っています。

ステ全振りしてもわからないということですから。

 

おそらく親御さんの多くは、そうなるとさらに焦ってしまわれるのでしょう。

「この子はなんとかして詰め込んで私立中に押し込まないと、もっと落ちていく」と。

そんなことはありません。

中学生になってキャパが増えると、自然とできることは増えます。

小学生の少ないキャパを中受に全振りして偏らせてしまわなくても、大丈夫です。

 

中受(=塾での机上の勉強)にステータス全振りしてしまって

・日々の生活から学ぶ力

・他人を見て学ぶ力

を失ってしまった子をたくさん見てきました。

そういう力は「中学に受かった後でとりかえし」はつきません。

それが「ステ全振り」の落とし穴です。