とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

雑記:「つらさをわかって」がなんか苦手な理由

SNSを開けば、「私の辛さをわかって!」を見ない日はない。

 

冷たいようだけれど、私はあれが苦手だ。

 

誤解しないでね、辛い立場の人が苦手なのではなく

それを「不特定多数」に言い募る行為が苦手だということ。

 

なぜって、声高に自分の辛さを滔々と語り「共感」「思いやり」を欲する人が

「他人の辛さ」に共感したり手助けしたりしているのを見たことがほぼないから。

 

そして、彼らが「自分より恵まれている」と勝手に判断した相手には

辛さなどあるはずがないと決めつけ、場合によってはサンドバッグにしているから。

 

人は、〇〇ができるようになったら「あがり」にはなっていない。

能力が上がればノルマも上がる。

一時期、ある会社で利益の大部分を稼ぎ出していた時があったけど、それで楽になるどころか、「もっと稼げ」とノルマが上がっただけだったからな。社員の給料私が出していたようなもんなのに、ほかの社員からは「当たり前」だと思われたし。それであほらしくなって辞めて今に至る(笑)。

 

ノルマだけではなく、自分に対する向上心から苦しむこともある。

WBCの村上選手が記憶に新しい。あれだけ凄ければ、彼よりスキルの低い人から見たら羨ましい限りだろうに、彼は大谷選手を目の当たりにして自分にプレッシャーをかけまくり自分で自分を追い詰めて蒼白になっていた。

 

まあ、つまり、たとえ自分より恵まれているように見えても、その人にはその人の「辛さ」があるわけよ。それをわかろうとしない人が「私の辛さを知れ」というのは、自分を中心に世界が回ってるんだなあと感じる次第。

 

なんでああいう人達は「不特定多数」に訴えるんだろう?

気持ちをわかってくれる相手は、リアルの身内や友人のほうが万倍良い。

英語のたとえで「列車の隣人」という慣用句のようなものがあるんだけど、ネット切ったら付き合い切ることができる相手には、いくらでも「共感」ふるまえますよね(笑)。

身近な人とわかりあい共感しあうほうが、よほど人生がたしかに豊かなものになる気がするなあ。

 

ちなみに、私自身は、過去はたまたまたスキルの高かったために過度なノルマや期待を寄せられて非常につらかった時期もあったんだけど、「スキルの高い人間にノルマや期待を課す人たち」とすっぱり手を切って、フリーで生きていくことにしてからは、そうした辛さがほぼゼロになった。だから、不特定多数に辛さを訴え続けなくて良くなった、という面はある。

 

「できる人」には「できる人」の苦労がある。

でも、「できる人」がちょっとでも愚痴を言ったり、ちょっと品行方正でない行動をしちゃったりすると、よってたかって叩かれるからな。

大谷選手とか藤井さんとか、ほんとうに常人には計り知れないメンタルの負担があると思う。。。

 

今日は、オチがないまま終わります(笑)。