とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

東大2姉妹の母親は何をしていたか~私の場合

20年以上前の話なのであまり参考にならないかもしれませんが、恥ずかしながら私の親がどういう接し方をしてくれたか、そして私がどんな子供時代を過ごしたか、ご参考までに書いてみます。

ちなみに、私は姉妹揃って東大です。

そして、母は高卒です。女性が高卒なのは当たり前の時代で、それでも祖父は女子大に入れようと画策していたようですが(笑)、母は社会に出たいとさっさと就職決めてしまったそうです。

 

1)幼稚園時代

やりたいことは、全部やらせてくれました(可能な限り)。
幼稚園時代の記憶ってあまりないんですけど

・ザリガニ&メダカ釣り

・木登り

・絵本作り

などをしていた気がします。

私の母は、メダカ釣りたいと言えばせっせと肉団子を作ってザルに入れてくれました。

私はアウトドアもインドアも好きだったんですが、母の口癖は「お日様と勝負!お日様が出ている間は外で遊んでおいで!」でした。

 

2)小学生時代

・時計の分解をはじめとした「実験」

・絵本作り

・漫画

・野球

に夢中な小学生でした。

好奇心の塊だった私は、家中の時計を分解してみたり、学校で「でんぷん」を習えば即家に帰って家中のジャガイモからでんぷんを取り出したり、好き放題やってました。それだけではなく、家でできる、ありとあらゆる「実験」のために結構家の備品を破壊した記憶がありますが、それで叱られたことはゼロですね。

「科学と学習」も両方取ってもらって、夢中になってやってました。

男子と野球をやりまくり、しょっちゅう青タン作ってました(笑

勉強しろ、と言われた記憶は一切ありません。

 

その代わり、それだけは烈火のごとく怒られたのは「友人を傷つけるふるまいをしたとき」です。その頃の私には、それがなぜそんなに悪いのか理解できませんでしたが、あの頃母が「身の回りの人を大事にしろ」と叩き込んでくれたことに、いまでも感謝しています。

 

まあ、昭和ですし、今から考えるとトンデモな先生もいたし、一方で今でも尊敬している先生もいました。でも母が先生の悪口を言っていた記憶が一切ありません。

私はかなり猪突猛進で気まぐれでワガママな小学生でしたが、母が学校の悪口を一切言わなかったことで、先生の言うことは真剣に聞き、その中で「自他の折り合い」「社会のルール」を学べた気がします。

 

昨今は、Twitterなどで「公立の先生はクソ」という発言を見ることが多いです。

正直、ちょっと行きすぎかなと感じております。

重箱の隅をつついて「先生はクソ」と教えると、子供も真似します。

自分の努力不足の結果でも、人のせいにするようになります。

 

話を戻しますね。

そして、この頃から母が工夫してくれていたのが

「お母さん新聞」

です。母が、ありとあらゆるジャンルから面白そうなことを拾って「手作りの新聞」にして、トイレに貼ってくれていたのです。

姉妹ともに、本当にこれには夢中になりました。

ミステリあり、クイズあり、さまざまでしたが、今思うと特徴は「視聴者参加型」とでもいうのでしょうか、読んだ私たちが競って「考える」ような作りになっていました。

 

この「おかあさん新聞」は、できれば中学受験のお子さんを抱えた親御さんにこそトライしてもらえればと思っています。もちろん、年々過熱するばかりの中受でそんな余裕はないのはわかります。でも、トイレに「覚えなさい」というものばかりが貼ってあるより「楽しめる」ものが貼ってある方が、断然子供の好奇心とモチベーションを上げると思います。

 

トイレに「覚えなさい」とばかりに日本地図や九九を貼ってあるご家庭は多いと思いますが、もしできるなら、そこにご家庭ならではの「工夫」をひとさじ入れてあげるだけで子供はうってかわって夢中になると思いますよ。

3)中学生時代

・漫画&アニメ

・カメラ

にのめり込んだ三年間でした(笑
当時はもちろんデジタルなどありませんから、手書きで「セル」を描き撮影し、カクカクながらアニメ映画を作ったりしていました。

手塚治虫先生・松本零士先生・いがらしゆみこ先生に夢中でした。

 

また、雲を撮るのに夢中になり、「いい雲が出てる!」と言っては一眼レフを持ち出し撮影しまくっていました。当時はフィルムカメラでしたから、現像代もかなりなものだったと思います。親と一緒に写真屋さんに行って、現像代が「〇万円」と言われていた記憶もあります。が、それで親から文句を言われた覚えが一切ありません。

 

ぶっちぎりの学年トップだったおかげもあるでしょうが、この時期も親から「勉強しろ」と言われた記憶はゼロで、むしろ、漫画アニメ&カメラに夢中な私を心配して、母親はしきりと私のザンバラ髪を可愛く整えようとしたりしていましたね。

この時期も、引き続き人間関係にだけはうるさかったです。

ちょっとモテていい気になって男の子を振り回すような行動をしているのが母親にバレて殴られたのは、今でも記憶に新しい(苦笑)。

 

試験勉強をしていると「買い物に行こうよ」「映画に行こうよ」と誘ってきたのも、母なりの「普通の女子中学生になってほしい」という願いだったんだと思います。興味ないのにファッション雑誌が机の上に乗せられていたり(笑

放っておけば「リケジョ」一直線でしたから、女親としては心配だったんでしょうね。

 

4)高校時代

ぶっちぎりのトップ入学をした私は、何を間違えたか「高校デビュー」してしまいました(笑)。別にそれまでも好き勝手やってきたので抑圧の反動というわけではありません。たぶんあれですね、優等生に見られたくなくてカッコつけたんですね。
しょっちゅう高校もサボってました。

当然、成績は急降下。

でも、ここでも母は何も言いませんでした。

いや、言ってたな。

「高校に入ったら、もう自分で決めること。どう生きるかは自分で選びなさい」

見放された気がしてちょっと寂しくもあり、そこで反省すればいいのに、私はますます「ファッション不良」の道を突き進みました(笑)。

2年間、ほとんど学校で最下位でした、成績。

でも、どこかで母親の言葉が響いてたんですね。

本当に、母には感謝しかありません。

高校三年生で初めて「模試というもの」を受け、「自分には行ける大学がない」とわかり青ざめ、そこからの猛勉強でなんとか東大現役滑り込みセーフ。

 

5)東大時代&それ以降

まあ、セイシュンですからいろいろありましたが(笑)、最高の4年間でした。

親が好き勝手やらせてくれたおかげで、もちろん将来も自分で決めるものだと思い込んでましたし、好きな会社受けてそのあとはしばらく企業戦士してました(笑
一通り、ビジネスの達成感も得られたので、本来の「好きな仕事」すなわち「教える仕事」に戻ってきた感じです。

 

6)まとめ、のようなもの。

もちろん、昭和と今とでは状況が違うのはわかっています。

「選別」がどんどん低年齢化する昨今、「バスに乗り遅れる」恐怖はわかります。

でも、結局のところ、子供は他人です。別人格です。

「本人が何を望むか」で、人生の方向は決まります。

そして、それは「いつだったらもう遅い」ということはありません。

「バスに乗り遅れる」ことをそこまで恐れる必要はありません。

 

中受のサポートをしている身で言うのもなんですが

中受で人生は決まりません。

 大事なのは「その子がどれだけエネルギッシュか」です。

思い通りになる子は、たしかに小中では楽でしょう。

でも逆に、高校以上では主体性のなさが心配になることでしょう。

 

小中高時代に

・好奇心

・主体性

・克己心&自律心

を身に着ければ、あとの人生はどうとでもなります。

 

むしろ、「本人の力」が試されるのが高校受験であり、大学受験です。

そこでは「努力」がモノをいいます。

中受は「先行逃げ切り」です。

レースの戦い方はそれだけではありません。

10~17歳の多感な時期は、二度と戻ってきません。

(その意味で、私は以前も書きましたが佐藤ママには反対です。友人関係にしろ恋愛にしろ、趣味に没頭するにしろ、「あとで取り返し」はききません)

中受をゴールと思い、焦らないでいただけたらと願っております。