とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「当たり前」を増やそう~塾の勉強に全振りする前にするべきこと

先日、ひどく体調を崩し病院に行く羽目になりました。

検査で半日入院することになりましたが、運悪く隣の病室の子供が大変に騒がしく(汗

病室でバネ仕掛けのミニカーをがしゃがしゃと走らせ大声をあげながら走り回るのを聞くのが辛いと感じたのは私の心が狭いせいではないと思いたい(笑)。

つい苛々してしまったのは、親御さんが、子供がさらにはしゃぐような対応(構ってしまう)をしていたこと、周囲に悪いとは思っていないらしいこと、でした。

 

いわゆる発達障害的なものでじっとしていられない、という感じではなく

親に構ってほしくてわざと悪いことをするパターンでした。

なぜなら、その子は一人で待合室にいるときは静かだったからです。

親にかまってほしかったんでしょうね。

そういうときは完全スルーするほうが効果が高いように思うんですが。

 

「最近の子は」と書くと老害と言われそうですが(笑)、教育現場にいて体感するのは

「親以外の他人を屁とも思っていない子」「他人の目が怖くない子」が増えたなあ、ということです。

昭和の方なら「よその知らないおじさんおばさん」から注意された経験がある方は少なくないのではないでしょうか。

私も、何度もあります。

その場ですぐに自分の悪さに気づき恥ずかしくなり反省したこともありますし、内心カチンときたこともあります。

でも、得難い「学び」だったなと思います。

なぜなら「ウチの常識と世間の常識は違う」ことに気づかせてもらえたからです。

 

翻って現代は、コロナ禍のスーパーで、唾でベタベタの手で商品触りまわってる子にそっと注意しただけで親から「子供のすることなのに!」とガチで逆ギレされる時代ですからね(実話)。ほとんどの都会人は子供が何をしていても見て見ぬふりなんじゃないでしょうか。

 

学校も同様ですね。

「怖い先生」の「厳しい指導」はTwitterなどですぐ晒されます。

厳しい指導とは体罰のことではありません。

眼力があると言いましょうか、その先生に黙って見つめられただけで自分のウソが見抜かれたとわかり怖くなる存在。子供だからと大目に見てくれない先生。

そういう意味での「怖い大人」は必要だと私は考えています。

大人になった今、思い出すのは甘い先生や子供受けの良い先生ではなく、子供を大人として扱い、悪いことは悪いこと、と自らが嫌われても毅然としてらした先生です。

 

このブログでは何度か書いておりますが、

「授業を受ける資格を感じない生徒」が年々増えております(溜息)。

タメ口なんてかわいい方です。

ガムを噛みながら何を聞いても返事をせずに、ゲームチェアにふんぞり返り、メモひとつとらない小学6年生。

そういう子がいわゆる「はねっかえり」ではない「普通の子」というのが怖いです。

さらに、私を認めていないから見下した態度をとるわけではなく、私を尊敬し好きだと言っているそうなので、もはや脳がバグりそうです(笑)。

つまり、その子たちは

「テストの点数だけが正義」

「ふんぞり返って教えてもらうことが『当たり前』」

と「学習」してきてしまっているんですね。

一度身についてしまった『当たり前』をくつがえすのは、ものすごいエネルギーが要ります。その子にとってはそれが当たり前なので「なぜダメなのか」を、(それが当たり前だと言うことを納得したくない)子供に理解させるのは至難の業です。

まあ、私は最近「『私が』嫌だからやめろ」と言うことにしていますが(苦笑)。

最初は「そんなこと言われたことない」と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていますが、「なんかよくわかんないけど(好きな)ミコトがそういうならそうしよう」と表面上は変わってくれることが多いですが、なんで小6に幼稚園の先生のような指導をしなければいけないのかと(苦笑)。

 

そういう子がなんでそれが当たり前になっているかというと、親御さんにとってもそれが当たり前だからなんですね。親御さんからも「タメ口がダメとか生徒が寝転がるのがダメだなんて知りませんでした」と言われるというのは以前も書いた通りです。

真剣に授業を受けなくて成績が上がるわけないんですが、どうもその辺がわからない親御さんが増えてます。

 

当たり前のことを、幼いうちに当たり前だと身につけさせてもらえなかった子は不幸。

なぜなら、その子たちが成長してから「当たり前」を身に着けるにはすさまじいエネルギーが必要だからです。

「ポツンと一軒家」で暮らすならマイルールでいいと思います。

そうではない以上、いつか最低限の常識を身に着ける必要が生じます。

その時期は、あとになればなるほど辛い。

 

おそらく、最近の「躾アレルギー」とでも言うような風潮、学校のルールに対する過剰な反発は、戦前教育の反動なのかなと思います。校則に反発するのは若者の通過儀礼でもあるでしょう。

でも、校則に従う=すわ全体主義!というのも短絡的な気がします。

ドラゴン桜」にもあるように、「型破り」というのはカタを身に着けたからこそできること。カタ=当たり前を知ろうともせずに好きなようにするのは「形無し」です。

 

同じタメ口やフレンドリーな子でも、カタを知ったうえであえて崩している子と、精神的に幼児のままの子は全然違います。前者の子は、TPOでサッと変えられます。

 

これも何度かブログで書いていますが、「うちの子は内申取れそうにないから中受させる」ってやっぱり間違ってると思うんですよね。公立中の内申なんて、当たり前のことを当たり前にやってたら普通に取れますって。それを親御さんが心配しなければいけないレベルだとしたら、まずしなければいけないことは「当たり前のことを当たり前にできるように教育する」ことじゃないんでしょうか。

期限は守る、とか。

約束は守る、とか。

遅れたら謝る、とか。

ウソはつかない、とか。

やるべきことをやることに苦痛を感じない、とか。

当たり前のことを身に着ける時間と労力を全部受験勉強に振り向けても、そもそもそういう風に生活が偏っていた場合、学力をつけるのにも多大な悪影響があります。よしんば仮に運よく学力だけ上がって、当たり前のことをできないまま偏差値の高い中高に上がって最終的に苦労するのは生徒本人だと思います。

文字通り「勉強『しか』できない子」が着実に増えていると感じる今日この頃です。