とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

雑記:「幸せを感じられる」のも能力のひとつだと思う。

ちょっと前ですが「世界幸福度ランキング」なるものが発表されていましたね。

 

まあ、なんていうか「国連って暇なのね…」と。

 

どんどん肥大化して下部組織ができて、予算使うためなのかな?とか穿ってしまう。

(そのくせロシアの件では何もできないのが露見したわけで。)

 

GDPや寿命は数字が高ければ幸せというわけでもないうえに、そういう客観的なデータと主観的なデータを混在させて「ランキング」とやらを作ることに何の意味があるんだろう? むしろ弊害すらあるでしょう、こういうのは(純真な人が真に受けてネガティブになってしまう、とかね)。

 

「幸せと感じるかどうか」について各国で1000件ずつほどのアンケートを取っているらしいけど、全然信ぴょう性感じないですよね苦笑。

 

と、まあ私はこのランキングは眉唾で見ているんだけれども。

また、「日本人は」とかn=1で主語でかくする話し方もしないように心がけてはいるんだけれども。

ただ、たしかに1つ2つ思い当たるフシがある、日本人が「幸せを感じない」理由。

 

ひとつめは、「他人のミスへの厳しさ」が回りまわって自分の首を絞めている点。

列車は時間通り来て当たり前。

店員は完璧な接客をして当たり前。

公務員やバスの運転手が勤務時間にジュース飲むのを許さない。

エトセトラ。

ちょっとでも自分の気に入らない対応をされると、鬼の首を取ったようにSNSで晒上げる。

特に、日本人は「相手の契約外・時間外サービス」がタダだと思っているフシがあるね。教育関係もそう。私なんかの仕事はまだマシだけど学校の先生は本当にかわいそう。教員不足が叫ばれて久しいけど当たり前だわ。

でも、そうやって誰かを晒上げるということは、自分も晒上げられる恐怖とバーター。

そうやってお互いの首を絞めあって窮屈な世の中にしているところは否定できないように思う。

ちなみに、店員さんは客と対等でいいと思ってる。日本の過剰なお辞儀や敬語はカタチだけだと寒々しくなるし、コンビニで深々とお辞儀されるくらいならニコッと笑ってくれたほうがよっぽどいいよ。

ついでに言うと、Twitterとかで「(他人に)寛容になれ!」とか言ってる人ほど普段は上記のような「絶対許さないマン」だったりするんだよね…。

 

ふたつめは、欲望に際限がない点。

まあ、それは私がこういう仕事をしているからよけいにそういう人に出会う確率が高いということはわかっているけれども。

いくらお金があっても、家の空気がギスギスして逃げ出したくなるくらいの御宅、笑顔がまったくないご家庭が一定の割合で存在する。「〇〇がない」「足りない」と、「ないもの」に目を向ければいくらでも不幸になれる。

 

私は今、毎日が実に楽しいんだけれども、その理由はわかっている。

「人と自分を比べなくて済む環境」を選んだからだ。

いくら「人のモノサシで生きるな」とキレイゴトを言われても、実際目に入ってしまったら心がモヤモヤするのが人間のサガだろう。

だから私は一人でできる仕事を選んだし、人と人が言い争ったり、みなが人より目立とうとギラギラしている場所(Twitterとか)には近寄らないようにしている。

かといって、向上心をなくして現状に甘んじているわけではない。

自分の能力は死ぬまでずっと高めていきたいし、もっと勉強したい。

毎日本を読み、自分のための勉強も欠かさない。

「知ること」がとても楽しい。

また、若い時は疎かにしがちだったご近所とのご縁も大切にするよう心がけている。

幸せと感じるかどうかは文字通り自分次第だ。

「人より〇〇」で感じる優越感は劣等感の裏返しでしかないし、自分より優れた人が現れたらあっという間にひっくり返る。

日本のように人口密度が高くて人間関係から逃れにくい国では、「人と比べない」ことは難しいかもしれないけれど、自分から進んでそういう情報を見に行かなければ(たとえばTwitterとか学校ランキングとか)だいぶ楽に生きられるんじゃないかな。