とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

書きたいことを、書けばいい

作文&小論文の話です。

 

最近は、入試が小論文だけの大学も多いですし、中学入試でも作文が要求されることが増えてきました。都立高入試では、作文は必須です。

 

日本の国語教育にはWritingの時間がないです。

本来、作文は一つの科目として扱ってもよいくらい重要だと思いますが、そんなことをやっている学校はほとんどない。その中で作文や読書感想文が課題になるのも実に不思議な話ですが、いったんそれはおきます。

 

学校で教えないのに入試で出る、そうなると塾業界の出番です(苦笑)。

巷にあふれる参考書も、作文教室も、僭越ながら何か違う気がしています。

それは「カタが身につけば文章が書ける」と信じ、カタを教えることに終始している点です。

たしかに、カタは大事です。

論理の筋道が通っていること、文法的に正しいこと、具体例があること、結論がはっきり伝わりやすいこと、etcetc。

でも、一番大事なことを忘れていませんかね

何のために学校側が小論文や作文を課しているかということです。

 

文章力を測りたいだけなら、読解記述問題でいいわけです。

小論文や作文を課しているということは、

「その生徒のものの考え方」

「どれだけアンテナ張って生きてるか」

が一番知りたいんじゃないですか?

カタ=アウトプットです。

たしかに、アウトプット能力、すなわちプレゼンテーション能力は、最低限必要です。だから、カタを教える必要がない、という話ではない。カタ「しか」教えないからおかしいだろ、と思っているわけです。

ガワだけは整っているけどパッション=その人自身の感じられない、ソツのないだけの文章って魅力ゼロです。

私は採点官ではありませんから、各々の学校の採点基準はわかりません。

でも、カタだけ整った、中身はすっからかん、でも大人が喜びそうな内容の小論文や作文、そういった文章に辟易している採点官は多いんじゃないかなとひそかに思っています。

なぜそんな風に思うかと言うと、私は実務経験ン十年の中で、人事に携わったこともあるし、部長として採用を決めていた時期があるからです。もうね、本当にみんな判で押したような文章書いてくるし、面接でもみんな同じことを言う。同じだからダメなんじゃない。ウソだからダメなんです。

粗削りでも、正直に「自分」を見せてくれる子のほうが、ウソをついて大人受けのいい志望理由を書く子より、入ったあとは確実に伸びます。

 

だから私は、大人の文章教室でも、生徒の小論文対策講座でも、まずはとことんディスカッションします。

本当に、こんな風に思ってるの?

ほどほどに及第点取れると思って書いてない?

ディスカッションの中で、生徒の本音=パッションが見えてきます。

本人すら意識していなかった、でも確実に心の中に持っていたパッションが。

あとは、まず書けばいい。

書いたあとで、よりそれが伝わるように見た目の修正をする。

カタ→中身、ではなく、中身→カタ、のほうが絶対にいい文章になる。

 

参考書によっては「作り話でいいから、大人受けの良い体裁のいい文章を書け」と書いてあるものすらありますが、あほじゃないだろうか。

そんなの、大人は一目で見破りますよ(笑)。

だいたい、生徒を馬鹿にしてるんじゃないかな、そういう参考書って。

「どうせ君には大人を説得するネタなんかないだろ?だったら作り話を書けばいいんだよ」って。

違う、お題と真剣に向き合えば、「そういえば」というネタなんて誰だって持ってる。

どんなネタでも、真剣に考え、パッションをぶつけろ。

そのほうが、絶対に人の心を打つ。

もちろん、そんなことは一朝一夕にはできません。

付け焼刃の「カタ」でクリアなんかできない。

だからこそ、日々の「インプット」を大事にしてほしいのです。

普段からモノを考えろ

いろんな事象に対して「意見」を持て

そういう子の書いた文章は、多少体裁が整っていなかろうが、読む側の心を打つ。

ウソ書いてるのが丸わかりでも、大人が好きそうな文章がカタ通りに書けている子のほうを評価するようなら、そんな学校は選ぶに値しない。