とある講師のホンネ

フリーの講師。国・数・英・理を指導中。東大卒。現在は家庭教師中心ですが、大人の文章教室なども開いています。

「作業」に逃げていませんか? 時間をかけている割に成績が伸びない原因です

「毎日ちゃんと勉強しているのに模試の偏差値が伸びないです」

「うちの子、毎日3時間は勉強しているんですが成績が伸びないんですが…」

「子供のやるべきことを『見える化』してるんですが、どうも効果なくて…」

 

しょっちゅう受けるご質問です。

ご相談者の悩みは深刻だと思われます。

ノー勉なら成績上がらない理由は一目瞭然ですが、「やってるのに上がらない」となると「才能がないのだろうか」と不安になってしまいますよね。

 

ご安心ください。

その原因はほぼ一つに集約され、真剣に向き合えば改善できます。

でも、そのためには「痛み」と向き合う必要が出てきます。

自分のダメなところをスルーしては、改善できないからです。

もしその覚悟があるならば、次のことを疑ってみてください。

 

自分の/わが子の勉強の仕方、あるいは親のサポートが「作業」になっているのではないか?ということです。

 

「学び」ではなく「作業」になってしまっている具体例としては

・「答えの見積もり」「計算の工夫」をせずに、ひたすら計算練習をする

・英単語や漢字を、例文を読まずにひたすら単語のみを書いて覚える

・問題を解いて丸付けはするが、バツの分析をしない&解説を読まない

などなど。

 

親のサポートが「作業化」してる筆頭は

・エクセルでスケジュールを作る

ですね。

 

勉強でも仕事でも、はたまたスポーツでも芸術でもすべてに言えると思うのですが、「なぜ間違えたんだろう」「どうしたらできるようになるんだろう」を考え抜き、理解してさらに定着させるには、相当な脳のエネルギーを使います。

 

ビジネスマン時代、部下を採用し教育する立場にいた時期があります。

その中で、人には大きく分けて3タイプあるなあと感じました。

1)上述した「考え抜いてクリアし己のスキルを上げること」が好きなタイプ

2)1)が面倒なので、創造性を求められない仕事を選ぶタイプ

3)1)は面倒だが、「やってるつもり」にはなりたいし、他人からもそう見られたいので「作業と言う名の努力」に時間を費やすタイプ

 

1)の人は総合職やリーダー向きですね。

2)のタイプの人も、自分に合う仕事がわかっているわけで、これは世の中適材適所ですから、本人も周りもハッピーな状況と言えるでしょう(除く:ブラック企業)。

実は、周囲が疲弊するのが3)タイプ(^^;

ビジネスにはゴールはなく、日々新しい問題と向き合いクリアしていく必要があるわけですが、このタイプの人は「解決策を考え出す」ことには時間と労力を使わず「他人から、解決策を考えていると思ってもらえる」ことに時間と労力を使ってしまいます。

そして、会議で「自分はこれだけ時間をかけて分析しました」というようなことを滔々と語るわけですが、そこには結論がなく会議室内には「……」と重い空気が流れることになります(苦笑

 

話が逸れましたね。

実社会でのあれこれは語りだすとまた長くなるので置くとして。

そう、3)タイプの人は、「考える、試行錯誤する、間違いを分析する」という「脳が疲弊する」ことから無意識に逃げているのです。

そのとき、「作業」は良い逃避先になってしまうのですね。

 

勉強の目的は「できなかったことができるようになること」

非常にシンプルです。

そこにおいて

「脳が働かない『作業』」は百害あって一利なし、です。

 

私はいつも「(理解段階では)問題を解く時間の2倍、答え合わせに使え」と指導しています。(理解した後の、練度を上げるステップでは反復に時間を使って構いません)

(詳しくは、過去記事に書きました。)

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

「今できない、わからない問題」と向き合うのって、しんどいです。

「手作業」に逃げている間は「思考」から逃げられます。

もちろん、クールダウンとしては「作業」は有効です。

でも、いつまでも「作業」に逃げていては一歩も前に進みません。

スポーツでも一緒ですよね。

前回も書きましたが、「基礎練の意味」を考えずに頭空っぽでドリブル練習やパス練しても「作業」でしかないのと同じです。

「作業」でも時間は過ぎて行ってしまいますから、これは怖いことです。

やってるつもり、が空回りにならないように、いつも「考え」ましょう。

 

親御さんの「エクセルスケジュール」も同様です。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

「アオアシ」の名言(1)~「自分で見つけた答えなら忘れないだろ?」

ビッグコミックスピリッツ連載中の「アオアシ」、初回から大好きです。

コーチとしても、非常に学ぶところが大きい作品でもあります。

いままで、ありそうでなかったスポーツ漫画だと思います。

それは「もって生まれた『センス』を明言化できなければ、一定以上はうまくならない=プロにはなれない」という部分が、非常に新しいと感じるからです。

これ、そのまま勉強にあてはまります。

 

だいたい小4くらいまではもって生まれた「センス」でなんとかなります。

場合によっては、中学くらいまでは「センスという貯金」で人より先んじることができます。でも、これまたさんざん書いてきたことですが、大学受験はたまた社会に出てからは、「それまでどうやって生きてきたか=努力の質と量」勝負になります。センス頼みでやってきた子は、その壁にぶちあたったときの挫折が半端ないです。

 

アオアシ」の主人公・青井葦人(アシト)は、まさにそういうサッカー選手です。

たぐいまれな「視野」を持ち、そのセンスを見込まれて愛媛から東京のエスペリオンというリーグチームの養成メンバーにスカウト(セレクションを突破したうえで、ですが)され入ることになるのですが、なにしろ田舎でセンス頼み・自己中サッカーをしていたゆえに手痛い「洗礼」を受けるわけです。基本技術が全然できていないうえに、自分が「見える」ことを明言化できない。そのため最初はチームメイトともかなりギクシャクします。

でも、破天荒だけど憎めないアシトに徐々にアドバイスしてくれる仲間もでてきます。

中でも、富樫というチームメイトがアシトの個人練習に付き合う回は、勉強のコーチとしても膝を打ちました。

なかなか具体的な「こうしろ」を言わない富樫にアシトがしびれを切らしますが、その中でタイトルにも書いた

「自分で見つけた答えなら忘れないだろ?」

が出てくるわけです(正確には、富樫の回想シーンであり、これを言ったのは福田コーチですが)。

また、この練習を通じてアシトは

すべての基本動作には意味がある

と悟ります。

「自分でもなぜかわからないけどできてしまう」で終わりにせず、「言葉にしよう」と切り替えられたアシトはさすがだと思いますし、そう気づかせた福田コーチはすごい。

 

この回を先日アニメで見て、大いに考えさせられました。

私はここでも再々「簡単に答えを教えるコーチはダメコーチ」と言っております。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

今現在勉強が苦手な子というのは「とことん考え抜く」ことが苦手なわけです。

考えるのを投げだして「わからない」と言えば大人が解法を教えてくれる、そんな「作業のような勉強」に慣れてしまっています。

だからギリギリまで考えさせなければいけない(その「ギリギリ」を見極めるのがコーチの力量でもあります。どうやっても解けない問題をひたすら考えさせるのも無意味ですので)。

ですから、「自分で見つけた答えなら忘れないだろ?」には我が意を得たりと膝を打ったわけです。

 

しかし、その次の「すべての基本動作には意味がある」と子供が真に理解するまできちっとやらせていたか?と問われると自信がありません。

たとえば、何十ぺん言っても「3.14を最後にまとめてかける」ことができない子に、「それをやるまで先には進まない」という、スポーツのコーチングなら当たり前のことができていたか?というと、正直できていません。

それには、いくつか理由があります。

数学にはいくらでも別解があり、別解をたくさん考えることこそ思考の柔軟さや俯瞰能力にかかわってきます。あるやり方を強制すると思考停止する生徒も多いので、そこは二の足を踏んでいました。

また、学業の指導において、やはり親御さんは「到達度=スピード」を重視されます。

私の場合、最初のミーティングで徹底した基礎重視と「お作法」重視、それによる塾や学校の進度とのギャップもご理解いただいてはおりますが、やはり限度があります。

0.75をかけるときに4分の3倍と「考えられない」、98をひくときに100を引いて2を足すと「考えられない」ことは、単に計算が遅い以上の深刻な意味(数量のイメージができていないという根本的な問題)があります。

アシトが「パスをきちっと『止める』ことは、次にパスを出すために必要だったんだ」と気づくまで「止める練習」だけをさせられたように、基礎こそ「できるまで応用には進ませない」という覚悟がもしかしたらコーチ側にも必要なのかもしれません。

この問題は、いつまでも答えの出ない悩ましい問題のような気もしています。

 

最後に、私信です。

過去記事にコメントをいただいていたのですが、個人情報に準ずる部分があるように感じましたので、念のため元コメントを承認せずにご返事だけ書かせていただきました。私の考えすぎだったら申し訳ありません(汗)。いつもコメントや応援ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m

わが子を「ネタ」にする親たち

いまこの記事を書くとまるで某漫画家の炎上に便乗しているように見えるであろうことは嫌なのですが、おかげでずっと思っていたことがやっと「書ける」のかなと思うと複雑な気がします。(これまで過去記事でtwitterをしない理由や精神的DV、親の承認欲求の怖さについてはさんざん書いてきたので、ずっと読んでくださっている方にはわかっていただけるとは思っています(汗))

一応関連過去記事。

 

mikoto2020.hatenablog.com

 

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twitterでもインスタでもブログでも、「わが子ネタ」は枚挙にいとまがない。

しかし正直なところ、ずっと昔から私は育児漫画というものが苦手。

理由は四つ。

 

そもそも子供の人権無視

子供は基本的に井戸端会議ですら家の中のことを他人に話されるのを嫌う。

赤ん坊のころの話を大人になって聞かされて本人も笑い流せるのは、せいぜい親戚が集まったときに悪意のないおじちゃんおばちゃんから聞かされる自分の昔ばなしだろう。

いくらフェイクを入れようと、「自分が幼少期にやらかした話を、赤の他人が、しかも大勢知っている」ということは恐怖&羞恥でしかないだろう。

 

有名作家の子ですらネタにされて一般大衆から「消費」されることに慣れられないのに、いまやそこら中、子供ネタのSNSだらけである。

中には個人が容易に特定されるものや顔出ししているものも少なくない。

そういう「発信者」の多くは「子供に許可を取った」と言うが、

全世界に私生活が発信され

消えないデジタルタトゥとなる

ことの本当の怖さを小中学生が理解しているとはとても思えない。

 

ゲスと良識のギリギリを攻めていたマスコミがいまや街角の風景を映すときには歩行者にもれなくモザイクをかける時代に、子供を一番に保護すべき存在の親たちがモザイクなしで子供の顔を載せたり、子供の(のちに本人にとっては黒歴史になるであろう)エピソードをガンガン載せたりしている。不思議でならない。

 

リアルとネットの逆転現象

私には子供はいないが、愛してやまない犬猫がいる。

犬や猫の動画は私もよく見るし、子供の動画とは違ってそれらを批判する気はない。

ただ、それでも私が「ウチの子」をネットに公開する気にならないのは、「『いいね』が自分を狂わせるリスク」を避けたいからである。

 

人間は弱い。

 

『いいね』がもらえて素直に嬉しかった気持ち

『いいね』がもらえないと不安な毎日

に、いとも簡単に変わってしまう。

 

ほんの短期間ではあるが、twitterをやっていたときに「バズってどんどんネット>>リアルになり、日常が『ネタ探しの場』になってしまった」人をたくさん見てきた。

芸能人ですらプライベートの時間を大事にする時代に、一般人が24時間「いいね」を気にするというのも皮肉な時代だなあ。

 

そもそもですね、「ネタ」ってそうそう毎日起きないですよね。

たまに身内がおかしなことをしたときにフェイク入れてちょこっと書くならまだわからなくもないんだけど、毎日毎日パートナーや我が子のことを全世界に発信することが「義務」になっちゃってると、大げさに言えば中毒になってるのかなと感じます。

 

家族からしたら「また私たちのことを世界に向けてポチポチ発信してるんだな」っていうのは恐怖なんじゃないかなと思いますが、それが当たり前になってしまっていると家族側も麻痺しちゃうのかな?その辺は私にはよくわかりませんが、私が「ウチの子」をネットに載せないのは、毎日毎時間彼らとすごす時間が大事であり、そのときに「これ、記事に使えるかも」と考えたくないからです。

 

いわゆる「落とし芸」が目立つ

たまたま子供やパートナーがおかしなことをして「うっかり」笑いが取れてバズってしまうと、もっと面白いネタを…となってエスカレートするケースも多いですね。

 

ちょっと話がそれてしまいますが、「お笑い」でも下手な芸人さんほど、他人を落として笑いを取ろうとしますが見ていてしんどい

お笑いについて書きだすと長くなるのでまた別の機会にしますが、新春に「ドリーム東西ネタ合戦」を見て背筋が寒くなったネタがありました。いわゆるボッチの子が、痛々しい自己紹介をしてしまうというネタ。途中で相方からフォローがあるのかと思いきや、どんどん奇行がエスカレートし、相方はそれを馬鹿にし観客はただ嘲笑う。

私は漫才が好きですが、「ボケの言動をツッコミが嘲笑う系」は苦手ですし、やはりそういうコンビは長続きしていない気がします。

サンドウィッチマンさんやナイツさん、和牛さん、そのほか良識をお持ちだなと感じるコンビのネタは、「常識人がボケの行動に困らされている様子」がおかしいわけで、観客は「ボケの行動そのものを嘲笑って」いるわけではありません。

そうなってしまっては、それはもう観客の憂さ晴らしであり公開イジメです。

 

「他者を落として笑いを取る」のはカンタンなんですよ。

身内のネタをさらして「いいね」をもらうのも同じです。

私は俗に言うイジリ芸とやらも大嫌いですが、あれってやってるほうは「イジッてやってる」と思ってるらしいですね。

わが子の恥を晒して生業にしている作家さんやSNS発信者さんは、わが子が「うちのおかん/おとん、昨日腹出して寝てたわ~」とか「昨日の飯がマズかった~」とか毎日発信しても平気なのかな。

ま、イジリ芸をする人ほど自分がイジられるのを嫌いますからね。

 

他者をイジらなくても感動や笑いは取れるのですが、それには自分の中で熟成する時間やエネルギーが必要。だからカンタンにウケたいと他者や身内をイジってしまうんだなと考えています。

 

まだ育児途中な人が、なぜ自分の育児を成功例と喧伝できるのかわからない

育児論を上から目線で語ってきた有名人の子がグレるのは珍しい話ではありません。

荒川弘さんが育児ネタを書いてほしいというオファーを「子供が巣立ったあとに、もし子供から許可が出たら」とすべて断っているのは有名。

 

私は、ここでもさんざん書いているように人間の幸せは自分が幸せだと感じたらそれでいいと信じているので子育てに成功も失敗もないとは考えているけれども、それでも。受験で教育虐待した結果くずれた子供などを多々見ていると、やはり子育て論を上から目線で語れるのは育児が終わってからじゃないかと思っています。

たとえば、社会に出たばかりの新人が「こんな工夫をして頑張っています」ならわかるけど「仕事とは」「社会とは」とか上から目線で語ってたらチベスナ顔になってしまうのと似た感じです。

「道半ば」にもかかわらずリアルタイムで発信することの難しさを感じます。

「東大リベンジャーズ」と「浪人回避大全」~学歴は金メダルなのか(2)

前回の記事で触れた「浪人回避大全」と「東大リベンジャーズ」の2巻を読み終えたので、その感想的なもの。

この著者の濱井正吾さん、どうとらえるか迷う(^^;

 

このブログでも再々言っているように、多少年齢が違っても「あることができるようになることの価値」に年齢は関係ない、と個人的には思っている。

それが顕著なのが中受で、御三家や渋谷幕張あるいは準御三家などの「レベチ」な入試問題は別として、ほとんどの中学受験の入試問題は、いざ中学生になってしまえば「なんでこれが当時解けなかったのかわからん」というレベルなんじゃないでしょうか。

つまりそれらは「12歳で解けたから」すごいという話。

大学入試の問題も、そう。

でも、ある一定ラインより難しい問題はただ年数を重ねても解けるようにはならないわけで、その意味では濱井さんはとてつもなく頑張ったと思う。

 

人間だれしも気にかかるコンプレックスはあると思う。

昔足が遅かった、とか。

泳げなかった、とか。

絵が下手だった、とか。

数学が苦手だった、とか。

それらについて、幾つになっても「リベンジ」することで自分のコンプレックスが無くなって幸せになることは多いので、50であろうが60であろうがチャレンジしたらいいと思う。

だから、濱井さんが「早稲田卒というエンブレム」を手に入れることで自分のコンプレックスが無くなると信じ、9年間頑張ったことそれ自体は本当に素晴らしいと思う。

 

でも、いささか残念に感じる点もある。

それは

・そもそも9「浪」ではない点

・早稲田を出れば一流企業に再就職できると思っていたように「見えてしまう」点

・大学で何を学びたかったのかわからない点

です。

 

一般的に、仮面浪人を経て再受験した方々は浪人を名乗りません。

浪人とは、語源から考えても「どこにも属せない」ことですよね。

「9年かけて念願の早稲田!」ならわかるのですが、それを「9浪」というのは「ビジネス浪人」と言われても仕方ないかもしれませんね。

 

また、先日「ほとんどの会社でエントリーすらさせてもらえなかった」と言ってらしたように記憶しているのですが、長年の社会人経験のある身からすると

ちょっと何言ってるのかわかんない

感じです。

 

これは3つ目の項とも深く関係します。たとえば、濱井さんが社会に出たあと「物理」や「生物」や「法律」や、エトセトラ、そういう「専門的な分野」に興味を持ち、それで大学で学びなおしたい、そしてそれを活かして再就職したいということなら理解を示す会社は多々あったんじゃないかなと思います(それでもさすがに年齢的なハンデはあるでしょうが)。

 

でも、濱井さんって「学歴」が欲しかったんですよね?

そこまで最終学歴にこだわるならなぜ東大を目指さなかったんだろう。9浪で早稲田文学部はインパクトに欠ける気がする。

国立理系も視野に入れて再受験を考えていて、結局理数の点数伸びないから早稲田の教育学部or文学部を目標ににしたんですよね?なんかそれ違くない。

「9浪早稲田教育学部国文学科」が実社会、会社の人事部からどういう評価をされるかを、せっかく数年間は実社会にいらしたのだからそこで情報として手に入れておかれれば良かったのでは…と思います、余計なお世話ですが。

 

「浪人回避大全」に書かれているTips自体は、ほとんど頷けることばかりでした。

ですから、何年かかろうと「〇〇大学」に入れるだけでいい、と考える学生にとっては有益な本だと思います。

 

でも「〇〇卒」だけで「金メダル」になると若者に誤解させかねない部分は頷けないです。東大ですら、3浪以上で入って専門性を身に着けず「東大卒」というだけを売りにして就職戦線に立ち向かってもおそらく門前払いに近いはずです。

 

「9浪はまい」さんは9浪ではなく「社会人の再受験」だと思っていますが、同じように再受験する場合は

・「〇〇を学びたい」という目的がある

・専門性あるいは資格をとりなおしてその分野で仕事をしたい

ケースならば実益があると思いますが、「〇〇卒」という肩書が手に入れば人生リセットできると考えるのは危険だと思っています。

 

そういえば「東大リベンジャーズ」も「東京卍リベンジャーズ」も、「過去に戻ってやり直す」話ですね。

 

幾つになっても「〇〇卒」という属性がなくなるわけではありませんが、

「〇〇卒」というカードが有効な時期は一時期

最終学歴にこだわる気持ちもわかりますが、それを塗り替えるために費やす時間を実社会での経験や資格(=あらたなスキル)取得のために費やすことで、よりハッピーになれるのではないかと思ったりもします。

「リベンジャーズ」と違って、時間は後戻りできませんから。

たぶん、濱井さんは早稲田に入りなおせば18歳からやり直せると思っていたんでしょうし、それは第三者からみるとしんどい感じですね。

 

 

余談ながら。

私はこの仕事に戻るまで、十数年ビジネス界にいました。一度転職をしまして、その際にはたしかに「東大卒」はものすごく助けになりました。でも、それって東大卒業したあと十年ほどしっかり仕事をして実績積み重ねてきたからだと思うんですね。

このブログでも何度も書いてますが、結局学歴って「〇歳時点でそれだけの学力があった」ってだけです。人は「今」を見ていますし、そもそも自分自身も「今」を生きています(「東大リベンジャーズ」の中でマッくんがずっと東大の話をして会社で干されたのはそれが理由ですね(苦笑))。学歴にこだわるより、どんどん新しいスキルを身に着けたほうが人生幸せだと思っています。

「東大リベンジャーズ」と「東大多浪」と「浪人回避大全」~学歴は「金メダル」なのか(1)

今日は久しぶりにリーマン時代の親友とランチしたあと、私にとってはある意味禁忌の(行ったが最後、諭吉が数枚飛んでいくのがわかっているので)「書店」に寄った。

自学のための本、生徒との授業のための本、エンタメ本、もう本当に何度「本屋ごと買い上げたい!」と思ったことか(笑)。

とりあえず今日は、はやる心をおさえて授業のための本を5冊ほど、そして目についた「浪人回避大全」を買った。

 

これはまだ半分までしか読めていないので、詳細な感想は後日。

いまのところ、濱井氏の言っている「勉強法」や「勉強への心構え」はうなずけるし、9年かけて念願の早稲田に入ったことは本当に素晴らしいと思う。

ただ、たしか彼は「早稲田を出ても9浪していると就職エントリーすらできなかった!」と、日本の「新卒市場」に異を唱えていた気がする。

それは、ちょっと違うと思う。

これに関しては、語りだすとまた長くなるので後日にします。

 

この「浪人回避大全」を見てすぐに思い出したのが、数年前の東大五月祭で買った「東大多浪」という名著(笑)。本屋さんでは買えませんので、書影で。

裏表紙に「※二浪は現役です」という註釈がありました(笑)。

さすが東大生といいますか、私も常々「合格体験記より不合格体験記の方がためになる」と思っています。これもまた長くなりそうなので別記事にしようと思いますが、成功例って意外と役に立たないんですよ(笑)。だって、スティージョブズホリエモンの体験記読んで、真似できます?(笑)できませんよね。巷にあふれる「成功体験記」は「成功する資質」を持った人の、かつまた成功例だけを書いたものですから、読み物としては面白いですが、一般化できるかというと疑問。

一方、「人の失敗談」は参考になる。

私は「しくじり先生」という番組がとても好きだったのですが、そういうことです。

この「東大多浪」は、多浪生たちが赤裸々にご自分の過去を語っておいででとても参考になるので、五月祭に行かれる機会があればぜひ。

 

そんな流れで思い出したのが「東大リベンジャーズ」(笑)。

 

「東京卍リベンジャーズ」を読んでいればネタかぶりで爆笑できますが、読んでなくてもわかるかも?

「東大あるあるネタ」に関しては、半分本当・半分盛りすぎ(笑)かな。

 

主人公(東大卒)が東大ラブなのも、かといって「(社会に出てから)群れることができない」それゆえに三田会みたいなのができないネタは真実(民間の場合なので、霞が関は違うと思うけどあしからず)。

「東大生は人の話を聞かない」は話半分かと(笑)。そもそも、人の話が聞けない人は現代文解けませんし。

主人公は「オリ合宿」に戻れれば人生リセットできると思ってるようですが、それは違うかな。。。

 

言語化するのは難しいんですけど、頑張ってみる。

 

なお、以下の文章はかなり前の話であり、現在の「東大生ということが芸能界でウリになる」時代とは全く違いますので、その点ご理解ください。

 

東大って、「東大合格がゴール」の人と「東大入って〇〇やりたい」の人が混在するわけです。それはどの大学でも多かれ少なかれそうだと思うんですが、良くも悪くも、東大の場合「合格=金メダル」感が半端ないのは事実だと思います。

ぶっちゃけ、私も「てっぺん」だから東大目指したクチですから(苦笑)。

高校ではバンド小僧でウェーイのパリピで、そのくせ「てっぺん」が欲しかっただけの底の浅い人間でしたから(苦笑)。「合格=金メダル」とれて、あとは「NASAに行きたい」とかふざけたこと言ってましたが。

 

入学後、本当に「東大はほかの大学と全然違う」ことを体感しました。。。

 

もちろん、東大にも私のようなウェーイ系つまりパリピはそこそこいました。

でも、東大では「ウェーイ系でパリピだから尊敬される」ことはなかったです。。。

いや、たしかにそういうタイプは「好かれて」はいましたが。

(その頃の)東大でみなの尊敬を集めるのは「まじめで、成績がいい人」。

普通の学園ドラマや漫画だと、「ちょっと道を外れてるやつ」が好かれるのが王道ですし、なんなら出身高校でもそういうヤツが人気でした。

でも。

東大では全然!!!!そんなことはありませんでした(苦笑)。

 

 

東大は、東大だった。。。と痛感しました。。。

容姿がいいとか、ノリがいいとか。

そういうの、全然通用しない世界でした。。。

 

(今は、東大生がばんばんテレビやyoutubeに出てますから、あの頃とはまた違うと思いますけれども!)

同じ高校の親友が早稲田に進学し、イベント系サークルでウェーイして学内でも羨望されている様子を見て、我彼の差を感じました。。。

 

東大は確かに「金バッジ」かもしれません。

ですが、これは以前にも書きましたが、その「金バッジ」は万能ではないです。

実際、私も「地元じゃ負け知らず」が「上には上が知る」を知り、初めて挫折と謙虚という言葉を覚えましたが、就職戦線では再び「負け知らず」でした。

そこでは再び学内での学力による評価が反転し、私みたいなアホなパリピが内定バンバンいただく一方で、私よりもはるかに頭の良い同級生が、バブルにもかかわらず内定取れないのもたくさん見てきました。

その、「入口」に限って言えば、たしかに東大は「金バッジ」だったかもしれません。

なのに、いざ社会に出ると、その「金バッジ」が邪魔になることが多かったです。

「東大リベンジャーズ」にもありましたが、「東大出」ということだけでいらぬ反感を買ったり、勝手にハードルが上がったり。金バッジ「だけ」で会社に入ってきた子が実社会と折り合いがつけられずに挫折して辞めていったのもたくさん見てきました。

 

何が言いたかったのかな(笑)

あらためてまとめてみると

・たしかに東大は「金メダル」かもしれないが、

 金メダルとれればOKと思っていると入ってから辛いかもよ

・金メダル『だけ』で世の中渡っていけないよ

・そこまで勉強好きなら、大学に残って研究したほうが

 自分のためにも、世の中のためにもなるかもよ

ということでしょうか。。。

 

ちなみに、「東大リベンジャーズ」の井丁道武は、「オリ合宿までもどればリベンジできる」と思ってるようだけど、それは違うぞ(笑)。他人と適切な距離感を持って良好なコミュニケーションが取れる能力は、中高生までに学ぶべきこと。井丁道武がリベンジしたかったら、少なくとも高校一年生まで戻ったほうがいいんじゃないかな。

さらにちなみに、私はもし「リベンジ」ができるんだったら、東大合格「前」できれば高校1年生に戻りたいですね。もっとちゃんと真面目に勉強をして、東大に入って学ぶことの意味をわかってから入学したかったです。

 

間違いから学ぶ生徒・学ばない生徒~「バツの分析」こそが実力を伸ばす

問題を解けなかったとき。

あるいは、解いたけど間違えたとき。

「それにどう向き合うか=的確にバツを分析できているかどうか」

でその後の伸びが決まると言っても過言ではありません。

伸びる子はこれができていますし、あるいは指導によってバツの分析ができるようになると飛躍的に伸びていきます。

ぶっちゃけた話、これが自分でできるようになったら個人講師は不要(笑)。

私は常々担当生徒に「早く『もうミコト要らんわ』と卒業してね(笑)」と言いつつバツの分析の仕方を教えています。

段階的に言うと次のような感じでしょうか。

 

1)丸付け

ザ・基本。

基本中の基本ですが、意外にこれを自分でやらない生徒が多くて驚きます(^^;

理由は、以前にも書きましたが「丸付けは親/先生がやるのが当たり前」のまま育ってきてしまったのかなと考えています。

テストなら採点者がほかにいるのが当然ですが、自学はテストとは違います。まず自分で〇×をつけ、「バツから逃げない」習慣をつけたいところですね。

そもそも「丸付けをしなくても気にならない」ことそれ自体が根の深い問題だと思うのですが、これは語りだすと長い話になりますのでまた今度。

 

2)直し

これも基本の範疇かと思いますが、やらない生徒は1)以上に多い。

直しの際に、「白紙の状態に戻って解きなおす」のは良いことですが、そこまでやったなら是非とも「最初はどこを間違えたのか?」を自分でチェックしてほしいです。

というか、できる子はこれを言われなくてもやります。

「なぜ間違えたか」が気になってしかたないからです。

バツから学ぶ、ということはそういうことです。

「なぜ間違えたか」の原因を調べない限り、また同じ間違いをするからです。

 

この「なぜ間違えたかが気にならない」のは、大人から見るともどかしくて仕方ないところですが、その原因は年齢による場合と性格による場合があると感じています。

人間というものは、若いほど「ふりかえるより先に進みたい」のが当たり前と言えば当たり前で、それは生き物として理にかなっている気がします。私は小学生時代から7~8年継続して指導を依頼されることが多いのですが、小学生時代には「振り返り」が出来なかった子が中高生になって、私に言われなくても「どこを間違えたか気になるので、ちょっと待っててください」と言うようになると感無量です。ですから、ある程度はしかたない、小学生だから当たりまえ、と考えることもできます。でも違う見方をすれば、そもそも「小6で中受レベルの問題を解く」こと自体が「当たり前」ではないわけです。その苛酷な道を選んだ以上、そこで勝ちたければ、振り返りができるようになる努力も必要と言えます。

 

一方、性格的に間違えが気にならない、振り返ることが嫌いな子もいます。こういうタイプの場合、勉強時間を増やしても効果が(期待ほどには)上がらないことが多く、周りがヤキモキすることになります。こればかりは、今のところ私は特効薬がわかりません。指導経験上は、反発心を買うのを覚悟で真剣に説諭することで好転したことも多いですが、クビを覚悟でそこまでやる講師もそうはいないでしょうし、ある程度は(良い意味で)あきらめたほうが精神衛生上よいかもしれません。

 

3)分析&対策の考案

2)で書いた「なぜ間違えたか」と似ていますが、これはさらに上位の次元です。

これができれば、まさに塾&予備校いらず(笑)。

点数上は同じ「バツ」でも、「わからない」のか「ミス」なのかで対策は違います。

わかっていない場合は、自分がどこでつまづいているのかを分析して、あとはそこまで戻ってやり直せばいい。

例えば二次方程式の解の配置問題ができない場合。

二次方程式と二次関数のグラフの関係がわかっていない

・それはわかっているが、グラフがどうなると良いのかわからない

・それもわかっているが、条件を立式できない

・(別解としては)解と係数の関係がわかっていない

・それはわかっているが、積>0の形にする理由がわからない(式の処理)

などなど。

漠然と「わからない」というフワッとした分析だと、「解説してもらうとできるけど、一人になるとまたできない」のループになります。これについては指導側も大いに自戒しないといけない部分。高校数学ともなるとこなさなければならないタスクが大量になるため、いきおい「一通り解説する」で講師と生徒の双方が「やったつもり」になってしまうリスクが大きいです。集団授業では、一通りザーっと解説するしかない。マンツーマン講師としては、一段階ずつ生徒に問いかけ、どこでわからなくなっているかを見極めるよう心がけています。

 

問題は「ミス」の場合。

「ミス」あるいは「一見ミスに見えるバツ」を「ミス」として片づけない人は一流。

以前も書きましたが、割合の問題で割る数と割られる数を取り違えるのは「ミス」ではありません。理解していれば100パーセント間違えません。もちろん人間「うっかり」はありますが、そういう頻度ではなく「できたりできなかったり」の場合は「わかっていない」と判断するべき。

特に中受の場合は「理解していなくても正答が出てしまうケースも多いので、マルが多いからと安心せず、図示化させる・その場で類題を出し口頭で答えさせる、などのチェックが大事ですね。

 

私自身ずっとやっていて今も続けている勉強法ですが、ミスをしたときに「なぜミスをしたのか」「どうしたら防げていたか」をその場でガシガシと自分の答えの横に書きます。ちょこっとした顔文字を添えるとなお効果的(笑)。

つまり「セルフ突っ込み(笑)」

誰に見せるわけでもない自学のノートでも、やっぱりミスると悔しいんですよね(笑)。「グラフを描いていれば気づいたはず!」とか「文字式でチカラ技で解こうとしないで、まずは書き出してみようよ!」とか、よく自学ノートに書いています。

 

バツと真剣に向き合い分析していると、もちろん解く問題数は減ります。

でも、間違えた一問としっかり向き合うことは、なんとなくわかった気になったまま類題を10題解くより効果的だと思っています。

「しゃべらない子」が一番教えにくい。原因は親のことが多い

コーチングについてちょっと原稿を頼まれて書いている間に、またもや時間が空いてしまいました。でも、「話してみる」「書いてみる」ってやっぱりいいですね!担当編集的な立場の方とディスカッションしている間に、フワフワとしていた考えがどんどん言語化されロジックが立ち上がっていくのは毎度驚きますし、楽しいです。

 

そう、私が「ディスカッション型授業」「大学のゼミ型授業」をする理由も、ここにあります。

コーチ側が一方的に「教える」のではなく、生徒に喋らせる。

そうすると、生徒の中で自然と自分の疑問点が明確になっていきます。

 

私のように意識してディスカッション型授業をするコーチの方でなくとも、やはり「生徒からの発信」があるのとないのとでは、教えやすさが段違いなのは同業者の方ならわかっていただけると思います。

 

逆に言うと、「話さない生徒」が一番教えにくい。

たとえて言えば、「コーチから尋ねられても答えない生徒」というのは、「体調不良で医者に行っても問診票に何も書かない、医者の問いかけにも答えない患者」と同じですからね。

 

この「自分からは発信しない子」は、タイプがわかれます。

大きくわけて

「集団の中では自己主張できないが、1対1なら話せる子」

「相手を信頼し、安心しないと話せない子」

「他人が『忖度する』のを待っている子」

の3タイプですね。

上2タイプについては、個別指導が吉と出ることが多いです。

1つめの、集団では自己主張できない子は1対1ならOKですし、2つめの、信頼するまで話せない子については、信頼関係を築くことでコミュニケーションに問題はなくなります。

 

厄介なのが、3つめの「他人が『忖度する』のを待っている子」です。

このタイプは、イエスノーすら答えない。

「ここまでの説明、わかった?」と聞いても答えない。

「大人が察する」のを待つのが当たり前になってしまっている。

 

個人コーチが必要になる場合、こうした自分から発信できない子のケースが多いです。

いささか気になるのは、親御さんが「人見知りなのでしゃべらない」という間違った判断をしているケースが多い点です。

「人見知り」ならば、コーチと信頼関係が芽生えればコミュニケーションはとれるはず。何か月経って、信頼関係があると判断できる状況でも自分の考えを言えない場合は、原因は別にあると考えます。

 

ズバリ、こういう子は「他人が面倒を見てくれることに慣れすぎている」んです。

 

自分が何も言わなくても大人が察してくれるはず。

だから、イエスノーで答えられる質問にも答えない。

こういうお子さんは、授業がひたすら「受け身」です。

 

こういう「しゃべらない子」「受け身な子」は、「解説をすれば授業をしたことになる」と考えるコーチや、あるいは集団塾にとっては「楽な子」でしょう。

逆に、私のように「その子の学力を引き上げたい」と真に考えるタイプのコーチにとっては、正直一番教えづらい相手です。

 

こういう子を思い返してみると、経験上、ある法則に思い当たります。

「しゃべらない子」の親御さんは

もれなく「先に手出し&口出しをするタイプ」でした。

子供が自分で試行錯誤するまえに「正解のやり方」を教えてしまう。

子供が靴紐を結ぼうと四苦八苦しているときに、さっと手を出して靴紐結んじゃう。

 

「どうせ『正しいやり方』とやらを言われるなら黙ってやってもらった方が楽」

「自分でやるのは損」

ととらえる子もいるでしょうし

「あとから叱られるのが怖い。正解を言われるまで黙っておこう」

ととらえる子もいるでしょう。

 

手取り足取り、先取りで口出し手出しをする親御さんは、オンライン授業でも横にベタ付で子供に「指導」されます。ささやき女将かよ(笑)。

 

子供や若者は、「試行錯誤したい生き物」なんです、本来は。

試行錯誤の中で、本当の力を身に着けていきます。

試行錯誤する力こそ、本当の学力であり、ひいてはこの世を生き抜く力です。

 

「ウチの子、しゃべらないんですよ~」という親御さんは、これまでを振り返って

「自分が我が子の『発信する力』を奪ってこなかったか?」を考えてみていただきたいと思います。

 

なお、私は「しゃべらない生徒」に『忖度』すなわちその子の気持ちを過剰に代弁し、あれこれと必要以上に世話を焼く授業はしません。(信頼を築くまでの数週間は別です。大人を信用できなくて喋れない子には、まず心をほどくことが大事だからです。でも、その時期を超えても「他人だけに喋らせる」子に、いつまでも忖度授業をすることはしない、という意味です)

答えやすい質問にするなどの工夫はいたしますが、「生徒が答えないのに授業を進める」ことはいたしません。それは、単に「授業をしたというアリバイ作り」になってしまうと考えるからです。そっちのほうが楽なのはわかっていますが(笑)、それは生徒のためにはなりませんので。